梅雨入と入梅

2017-7-7 UP

梅雨入と入梅

ご機嫌よろしゅうございます。
爽やかな5月もそろそろ終わりを迎え、
6月にはいると梅雨の季節を迎えます。
昔は「入梅」は立春から数えて135目とされていましたが、
現在では太陽の黄経が80度に達した日で、
芒種から数えて5日目頃の最初の壬(みずのえ)の日を
「入梅」と呼ぶようになりました。
これは、壬が陰陽五行で最も水の気の強い性格を
もつことからだとか。
ちなみに今年の入梅は6月11日です。
またこれとは別に「梅雨入り」は実際に梅雨の期間に
入ることを指す気象用語で、日にちは毎年異なります。
この頃は大雨による被害が起きやすい時期であることから、
天候経過と1週間先を見越して、気象庁が「梅雨入り」と
「梅雨明け」を発表するのだそうです。

今月の和菓子「薫風」

2017-5-22 UP

kkkk

ご機嫌よろしゅうございます。
爽やかな青空の下、木々の緑は目にも鮮やかになりました。
そんな風に吹かれるみずみずしい楓の葉を表したお菓子を
ご紹介します。

目には青葉 山ほととぎす 初鰹 素堂
あらたうと 青葉若葉の日の光  芭蕉

源太さんに「こなし」と「練り切り」の違いについて
伺ってみました。「こなし」は米粉などででんぷんを入れて
蒸しており、もっちりとした食感に。
「練り切り」はあんこにつなぎをいれてさっくり、
ずっしりとした食感になるのだそうです。

茶の湯に見られる文様「龍」

2017-5-19 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は五節句のうちの一つ、「端午の節句」です。
詳しくは昨年もご紹介しましたが、鎌倉時代から
男の子の節句として祝われるようになった節句です。
また男子の出世を願って「登竜門」という言葉もかけられます。

今日はこの「龍」の文様をご紹介します。
中国において龍は権力の象徴であり、皇帝を示すものでした。
日本には弥生時代、稲作とともにその図像が流入し、
以後水の神として崇められたり、時に人に仇するものとして描かれ
様々なお話に龍が登場します。
一口に龍といっても、その種類は実に多く、中国における龍の
存在の大きさを物語っています。
裂地においても、龍は牡丹唐草に次いで数の多い裂地で
文形は小形の角龍とやや大きい丸龍形式に大別されます。
中興名物「相坂丸壷茶入」の仕覆「逢坂金襴」は綺麗さびを
体現した美しさで、雨龍と七曜、霊芝文が施された吉祥文様
になっています。他に珠光が好んだと言われる竜三爪の
「珠光緞子」が遠州好・高取「下面」茶入の仕覆として、
祥雲寺金襴と片身替で用いられています。
また「龍」で思い浮かぶ茶の湯の道具といえば「雲龍釜」でしょう。
「茶話指月集」には「雲龍釜」がはじめてできたとき、利休が
気に入って釜をかける姿や口伝が記され、茶会で「雲龍釜」
をよく使用しています。
釜から立ち昇る湯気に、天を昇る龍の姿を想起させます。

茶の湯にみる文様「ほととぎす」

2017-5-19 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
「夏は青葉がくれのほととぎす‥」
と遠州公が書き捨ての文に記されていますように
新緑の眩い季節にほととぎすの澄んだ美しい声をきくと
心が洗われるような清々しさを感じます。
遠州公の茶杓「時鳥」には

行きやらで山路くらしつほととぎす

今一声のきかまほしさに

の歌銘が添えられています。
茶席でほととぎすといえば、風炉の季節に花を咲かせる
「ほととぎす」も茶花としても茶人に愛されています。
また、小倉色紙の秀次の逸話を昨年ご紹介致しました。
初夏の季節、その姿や声に思い巡らせながら茶を
楽しむ様子が目に浮かびます。
その姿をしのび美しい声をきかせるように、ほととぎすの
文様としてはあまり姿を見せてはくれませんでしたが、
尾形乾山の作品に「定家詠十二ヵ月和歌花鳥図」という
角皿があります。江戸時代前期、古典復興が高まる中で
藤原定家の和歌に基づいた花鳥図が流行し、乾山は、
狩野探幽による和歌花鳥図を角皿に描いたと考えられています。

時鳥しのぶのさとに里なれき
  まだ卯の花のさつきまつ頃

この歌はそのうちの一首で、井伊宗観好十二か月月次
(つきなみ)茶器の四月はこの歌から画題を得て卯の花と
ほととぎすが描かれています。
ちなみに井伊宗観は井伊直弼の茶名です。

醒酔笑

2017-5-19 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は醒睡笑のお話をご紹介します。

「茶は眠りを覚ます釣り針である」という。
また「茶は食べたものを消化させる」ともいう。

吾門にめさまし草のあるなへに
こひしき人は夢にだに見ず
自分の家には「目さまし草」があるから眠れず、
恋しい人を夢にさえ見ない。などと言って、
人々がほめそやしながら茶を飲んでいた。
その末席に百姓がいて、「それなら、私たち百姓は、
一生茶を断ち申しましょう。一日中頑張っても、
その夜じっくり眠ればその心労も忘れます。
また、食べるのに事欠くことさへあるのに、
すぐ消化してしまうのではなんの役にたつのでしょう。
ああ いやな茶ですよ」と頭を横にふった。

そこで「憂喜依人(好き嫌いも人の境遇による)」という題で、
ますらをが小田かえすとて待雨を
大宮人やはなにといはん
農夫が田を鋤きかえして心配して待つ雨を、
大宮人は花が散るので嫌うだろう。と詠んだ。

何となく人にことはをかけ茶わん
をしぬぐひつつ茶をものませよ

花をのみまつらん人に山さとの
雪間の草の春をみせばや
千利休は「侘び」の本意として、この歌を常に吟じ、
心にかける友に対しては、いつも心してお忘れにならなかった。

契りありやしらぬ深山のふしくぬ木
友となりぬる閨のうづみ火
これは牡丹花肖柏の歌で、古田織部は冬の夜の物寂しいときに
この歌を好んで吟じられた。

茶の湯に見る文様「かきつばた」

2017-5-19 UP

5月 12日(金) 茶の湯にみる文様
「かきつばた」

ご機嫌よろしゅうございます。
端午の節句は、この頃に見頃を迎える菖蒲を
飾りに用いることから「菖蒲の節句」とも呼ばれ、
武士の「勝負」にかけられ男子の節句として祝う
ようになりました。
しかし菖蒲湯の菖蒲はサトイモ科で美しい菖蒲とは別物。
葉が似ていますが、蒲(がま)の穂のような黄色い花が咲きます。

そして花菖蒲と同様この時期に咲く「かきつばた」は、
その上品な出で立ちから画材や工芸品の模様として
多く取り上げられてきました。
染料として使われていたことから「書き付け花」がなまり
「かきつばた」となったとする説があります。

この「かきつばた」が描かれる作品としては「伊勢物語」
の八橋を題材とした尾形光琳の作品「伊勢物語八橋図」
「燕子花図屏風」など多くの作品が残ります。
旅人は直接描かれず、歌意を表す留守文様によって、
物語のイメージが膨らみ、見る者の想像を一層掻き立てます。
光琳の弟・乾山は「染付銹絵杜若図茶碗」をつくっています。
優雅に咲き誇る杜若を大胆な構図で描き、口縁に銹絵を施しています。
また、黄瀬戸茶碗には「唐衣」と銘をもつものもあります

宗家道場の床の間拝見

2017-5-1 UP

5月 1日(月)kabuto

ご機嫌よろしゅうございます。
今日から五月に入り、初夏の爽やかな風が
心地よく感じられます。
5月5日は端午の節句です。鯉のぼりや兜飾りなど
男の子の健やかな成長を願って飾られます。

本日の床の間は

床 鈴木其一筆
八幡太郎義家朝臣

花 燕子花
花入 真塗 手桶

江戸時代後期の画家で、酒井抱一の弟子である鈴木其一の絵です。
八幡太郎義家は源頼義の長男で石清水八幡宮で元服したことか
ら八幡太郎と呼ばれています。義家と家臣が空を見上げている
様子から、陸奥の清原氏一族の争いをおさめた際の戦いで、
帰雁の列の乱れを見て伏兵あるを知り、隠れ潜む清原氏
の伏兵を討ち取った逸話が描かれていることを想起させます。

床の間左側には御家元ご長男の節句の兜や人形が飾られています。

4月24日(月)御先代 紅心宗慶宗匠七回忌

2017-4-24 UP

平成23年4月24日
御先代の紅心宗慶宗匠が逝去されました。

終戦後四年間、シベリア抑留生活を送り復員。
昭和37年に遠州茶道宗家家元12世を継承され、
書画、和歌、建築、工芸等様々な分野において
の幅広い活躍
平成13年元旦に宗実御家元に遠州流茶道を
引き継ぎ、後見を務められました。
当代ご存命の内に家元を引き継ぐ形は
当時大変珍しく、その様子はドキュメンタリーで
放映されました。
家元を引退されてからも、展覧会や書の個展を開くなど
その才能を発揮されご活躍されていました。

本日は七回忌にあたり、
昨日23日には御先代を偲び追善のお茶会が宗家道場にて
行われました。

4月17日(月)今月のお菓子「花衣」

2017-4-17 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
暖かい 陽ざし お花見に繰り出して、花を愛でながらお茶を一服

お稽古場でも花びらにかたどられた愛らしいお菓子を愛でながら
春の設えのお稽古に励みます。

今日のお菓子は赤坂塩野製「花衣」
本来黄身餡で店頭に並んでいますが、宗家では小豆餡に変えて
作られた止め菓子です。
こちらでしかいただけない貴重なお菓子、心して頂戴します。

花衣 切り取り

「石畳文」

2017-2-24 UP

2月 24日(金)茶の湯と文様
「石畳文」

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州流茶道に親しまれている方にとっては
馴染み深い「石畳文」をご紹介致します。

正倉院の錦や、平安当時の宮廷で官位の制によって
定められた文様である有職織物にも「石畳文」は
見受けられ、「露文」と表現されていますが、
これは字の如く小さな文様であったようで
遠州緞子として知られる「大石畳唐花七宝文緞子」は
5センチ程の桝に四隅に星を持つ七宝文と、三種の唐花を
配しており、江戸初期日本に渡ってきた際には
大胆且つ新鮮な驚きを当時の人も抱いたことでしょう。
他にも色縞に小石畳を地模様とし、その上に宝尽しを散らした
「伊予簾椴子」。こちらは遠州公が中興名物の伊予簾茶入の
仕服に用いたことからの銘です。
また、星の文様が入った「尊氏金欄」または「白地大徳寺金欄」
とも呼ばれる「釣石畳」などがあります。

石畳文といえば京都にある桂離宮松琴亭の
一の間の床の貼付壁と襖障子が思い浮かびます。
青と白の配色による大胆な大柄石畳文様です。

江戸時代には多様な種類の石畳文様が能装束や小袖に
見られ、当時の流行が伺えます。
江戸時代の中期には京都から江戸に下った歌舞伎役者
佐野川市松が、中村座での初舞台「高野心中」に
小姓粂之助役で着用した袴の柄が石畳の文様でした。
その若衆振りが大変な人気を呼び、それ以降石畳文は
佐野川市松の名をとって市松模様と呼ばれるように
なっていったと言われています。