黒田藩の茶の湯

2014-12-21 UP

12月 21日 黒田藩の茶の湯
 
ご機嫌よろしゅうございます。
 
2014年の大河ドラマ軍師官兵衛も
 遂に本日完結となります。
 
このメールマガジンでも、日曜日に一年を通じて
 官兵衛の時代にまつわる茶の湯のお話を
 ご紹介してまいりました。
 今日はその最終回ということで、
 その後の黒田藩の茶の湯についてお話ししたいと
 思います。
 
官兵衛や、その子長政、孫忠之と続き、茶の湯に
 深く親しんだ黒田家ですが、
 三代藩主となる光之の重臣であった
 立花実山(たちばなじつざん)が後の黒田藩の茶の湯に
 大変な影響を与えていきます。
 以前にもご紹介しました「南坊録」と呼ばれる
 利休の茶の湯の精神や心得を表した「茶道の聖典」
 を編纂しました。
 現在「南坊流」として、福岡の地にその流れを汲む
 流儀が残っています。

龍光院(りょうこういん)

2014-10-5 UP

10月5日 龍光院(りょうこういん)

ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりましたので

軍師 官兵衛の時代のお話を。

官兵衛改め如水の子である黒田長政は
初代 黒田藩主となり、遠州公との深い縁もあります。

慶長九年(1604)三月二十日如水(官兵衛)は
京都伏見藩邸で亡くなります。
59歳でした。

1606年、如水の子・黒田長政が、三回忌のため
父の墓を塔頭・玉林院南に建てたました。
院名は、如水の院号「龍光院殿如水圓清大居士」から
龍光院とされました。
勧請開祖は春屋宗園、開山は江月宗玩。
1608年に春屋宗園の隠居所となり
1612年に遠州公が自らの菩提所として、
江月宗玩を開祖に、龍光院内に
「孤篷庵(こほうあん)」を建立しました。

1628年以降、現在の茶室「密庵」が建てられたと
されています。

毎年10月1日には開山忌法要が営なわれて、
宗実御家元もお参りされています。

黒田如水

2014-3-20 UP

3月20日 黒田如水

ご機嫌よろしゅうございます。
今日3月20日は黒田如水(官兵衛)の命日です。

軍師として活躍し、名将の誉高い官兵衛ですが
「連歌」や「茶の湯」を嗜む文人としての才も持つ人物でした。

しかし官兵衛は当初、茶の湯は
「勇士の好むべきことでない」と考えていました。
その官兵衛の考えを変えた秀吉との
逸話が「名将言行録」に記されています。

秀吉は「武士が他の場所で密談をすれば人の耳目を集めるが、
茶室ならば人に疑われることもない」
そう官兵衛に話したと書かれています。
その後官兵衛はその奥深さに魅了され
とくに千利休を尊敬し、
秀吉の邸宅・聚楽第(じゅらくだい)で開かれた茶会で、
官兵衛が秀吉や利休と同席したという記録が、
「天王寺屋会記(てんのうじやかいき)」に残っています。

また官兵衛の茶の湯観を表した
『黒田如水茶湯定書(くろだじょすいちゃのゆさだめがき)』
を残しており(こちらはまた改めてお話ししたいと思います)
「(自分の流儀は)我流にてはなく利休流にて候」と書いています。