3月25日(金)能と茶の湯

2016-3-25 UP

3月25日(金)能と茶の湯
「桜川」

ご機嫌よろしゅうございます。
先週は桜川をご紹介しました。

この桜川の名を持つ茶道具に、
西村道仁作とされる釜があります。
千少庵が愛用したといわれているもので

胴は面取し、面の角に細かい玉縁を
めぐらし、肩から胴ににかけて斜線がかけられ
籠目としています。

釜の下の方には桜の花が二輪
あしらわれています。

また、必ずしも能にちなんでというわけでは
ありませんが、「桜川」と名をもつ道具で
有名なのは大阪の藤田美術館所蔵の
古染付形物水指です。
形物とはその形と文様に一種の定形が
あるという意味です。
見込に陰陽の桜花、外に波の絵があり
水がたたえられると、桜花がうかびます、

3月 18日(金)能と茶の湯

2016-3-18 UP

3月 18日(金)能と茶の湯
「桜川」

ご機嫌よろしゅうございます。

春の訪れを感じ、桜の便りを心待ちに
している近頃。
今日は「桜川」をご紹介します。

九州の日向国、現在の宮崎県の桜の馬場
ここに母ひとり子ひとりの貧しい家がありました。
その子・桜子は、母の労苦に心を痛め、
東国方の人商人にわが身を売ります。
人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、
悲しみに心を乱し、桜子の行方を尋ねる旅に出ます。

それから三年
遠く常陸国(茨城県)の桜川は春の盛りを迎えています。
桜子は磯辺寺に弟子入りしており、
師僧と共に花の名所の桜川に花見にでかけます。

折しも母は長旅の末、この桜川にたどり着いた
ところでした。母は狂女となって
川面に散る桜の花びらを網で掬い、狂う有様を
見せていました。
師僧がわけを聞くと、母は別れた子・桜子に
縁のある花を粗末に出来ないと語ります。
そして九州からはるばるこの東国まで、
我が子を探してやって来たことを語り、
落花に誘われるように桜子への想いを募らせ、
狂乱の極みとなります。

僧は母子を引き合わせ、母はその子が
桜子であるとわかり、正気に戻って嬉し涙を流し、
親子は連れ立って帰ります。

母子の深い情愛を謡いつつ、
また舞台や名前、季節、心理描写などを
「桜」を主軸に据えながら美しく切ない叙情を
表現されている点も見所です。

この名前を持った茶道具に古染付 桜川 水指等があります。

3月 23日 (月) 中興名物「忠度(ただのり)」

2015-3-23 UP

3月 23日 (月) 中興名物「忠度(ただのり)」

行き暮れて木の下陰を宿とせば

花や今宵の主ならまし

ご機嫌よろしゅうございます。

中興名物の茶入に薩摩肩衝 「忠度」
という銘のものがあります。

「忠度」は世阿弥が新作の手本として挙げた
能の一つです。

平清盛の末弟であった忠度
ある日須磨の山里で旅の僧がその木に手向けをする
老人と出会います。一夜の宿を乞う僧に、
老人はこの花の下ほどの宿があろうかと勧めます。
この桜の木は、一の谷の合戦で討ち死にした忠度を
弔うために植えられた木でした。
そしてその旅の僧の夢に「忠度」が現れ
「行き暮れて」の歌を、
「千載集」に詠人不知(よみびとしらず)
とされた心残りを語るのでした。

風流にして剛勇であった忠度のいくさ語りと
須磨の浦に花を降らせる若木の桜が美的に
調和した名曲です。

この忠度が薩摩守だったことから
細川三斎が命銘したとされていて、箱書も三斎の筆
と言われています。

2月 16日 (月)西行と桜

2015-2-16 UP

2月 16日 (月)西行と桜

ねがはくは花のもとにて春死なむ

そのきさらぎの望月の頃

ご機嫌よろしゅうございます。
この歌は平安の歌人西行法師の詠んだ歌です。

西行は裕福な武士の家系に生まれます。
院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ
武勇に秀で歌人としての才もあった西行の名は、
広く知られていました。
しかし、西行は22歳の若さで、全てを捨てて出家
してしまいます。

この歌は60才代中ごろの作といわれています。
2月15日はお釈迦様の入滅の日で
平安時代から涅槃会など、
お釈迦様の遺徳を偲ぶ習慣がありました。

このお釈迦様が涅槃に入ったとされる
「きさらぎの望月」のころに
西行は「死なむ」と詠んでいます。

悟りの世界に憧れ、全てを捨て出家した後も、
現世への執着を捨てきれずもがきつつ
気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。

実際に亡くなったのは
七十三歳で1190年の旧暦2月16日。
(新暦でいうと3月24日頃)
「きさらぎの望月」の翌日。
まさしく「そのきさらぎの望月の頃」に
亡くなったのでした。

さてその死に際して、桜は咲いていたでしょうか?
今となっては定かではありませんが

江戸時代に入って西行を慕う僧がその墓を発見し、
西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、
心からの弔いとしたそうで、
現在では千本以上もの桜が墓を抱く山を覆っています。