5月 8日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-5-8 UP

5月  8日 (金)遠州公所縁の地を巡って
京都三条の屋敷

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の屋敷についてご紹介します。

遠州公三十七歳の折、弟の治左衛門正行が、
三十三歳で遠州公の京都の屋敷で亡くなっています。

この屋敷は詳しくはわかっていませんが、
以前藤堂高虎の所有であったものを
遠州公が最初の作事奉行になった
後陽成院の御所を造営する慶長11年頃に
遠州公に譲られたと言われています。

京都の三条に位置し、遠州公が居住するように
なってから徐々に改築が行われ
四畳半台目下座床の席が作られていたようです。

伏見の六地蔵からでは不便なことから、
岳父から贈られたのではないかと思われます。

これまでの研究では、「寛永初之日記」に記された
二十四回に渡る遠州公の茶会は
伏見奉行屋敷の披露茶会と位置付けられてきましたが、
深谷信子氏は、寛永三年の将軍二条城行幸の際に行われた
ものとし、二条城にほど近いこの三条の屋敷で
行われた茶会ではないかとしています。

この二条城ついてはまた後日ご紹介します。

三条西実隆(さんじょうにしさねたか)

2014-10-3 UP

10月 3日 三条西実隆(さんじょうにしさねたか)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は三条西実隆についてのお話を。

享徳4年(1455)4月25日生まれ。
飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に和歌をまなび
四十七歳で宗祇(そうぎ)から古今伝授をうけます。
一条兼良(かねよし)からは古典学を学び、
和漢の学に通じた当時最高の権威・文化人
として知られました。

茶の湯においては、利休の師匠であり連歌師でもある武野紹鴎が
実隆に和歌を学び、「詠歌大概序」の講義を受け
茶の湯の極意を悟ったと言われています。

また聞香にも優れ、後柏原天皇から
「御香所預(ごこうしょあずかり)」にも任じられました。
御家流香道の祖とも言われます。

天文六年(1537)の10月3日 83歳でなくなります。

最後に実隆の和歌を一首ご紹介します。

花も木もみどりに霞む庭の面(も)に
むらむら白き有明の月        「雪玉集」