昭和百年

2025-6-1 UP

 気が付いてみるともう6月である。ふり返れば決してのんびりとしていたわけではなく、かなり目まぐるしく日々を過ごしている。

 1月には古稀と言われ、まだ68歳ですからと否定しながらも、よく考えてみると来年の9月には本当に70歳になってしまう。自分自身の時間軸は、できるだけ長くとらえたいと考えているので、これからいよいよ本格的に精神と肉体との戦いが始まることを覚悟していかなければならない。

 今年は昭和百年のメモリアルイヤーである。世間でもときおりこの話題が取りあげられている。一番よく目にするのはテレビ番組かもしれない。ゴールデンタイムでは、やたらと昭和懐古の番組がラインアップされている。

 しかしタイトルはどれもこれもほとんど同じようなものばかりである。百年間を顕彰するという深い視点より、各テレビ局が既存の映像を、あれこれ切り取り繋ぎ合わせして編集し、何人かのタレントのコメントをとり二時間ぐらいにまとめるといった、いいかえれば制作費削減のおのが多くあるような気がしてならない。そういうなかでも圧倒的に多いのが昭和歌謡もの。最近は平成の後半以降に生まれた世代や、海外の日本音楽ファンに特に昭和の歌謡曲が人気であるらしい。

 そのこと自体は、YouTube始めあらゆる手段で情報を手に入れることが簡単になった証拠で、大いに歓迎されるものである。彼らは、日本語のもつ意味や微妙なニュアンスを感じ取り、音と言葉の重なりを読み取っているのである。ある意味、日本語の不可さを私たち昭和に性を受けた世代より、もっと理解する感性をもっているのかもしれない。この流れが、日本や日本人そして日本文化をより知ってもらう方向になるとよいと思う。世界はいままさしくトランプ旋風に巻き込まれている。その結果、頭のなかが経済一辺倒になりやすくなっている。なにをおいても自分が一番、他者や他国と比較して上位になろうとする、そういった潮流に飲み込まれてはいけないと思う。

 志を立て自らを鼓舞し、研鑽を重ねるのは人間には必要なことであり尊いことである。現代を生き抜くというのは、そう簡単ではないが、一方で、人にとって大切なものは、自分磨きである。自分だけに目がいくと、ほかのことがおろそかになり、結局は一人よがりに埋没していくことになる。第三者の考え方やスタイルに耳を傾けて、取り入れてそれに磨きをかけることで、個別の輝きをもつことになると思う。遠州公はあの戦国時代を生き抜き、利休・織部両先達の創りあげた茶の湯に、世の中の空気という客観性を取り込み、磨きこんで綺麗さびを生みだしたのであった。

 私は昭和31年生まれなので、昭和を33年間、平静をやはり31年間経験している。令和はまだ7年。これもまた30年くらい経験したいものである。