茶の湯に見られる文様「桐」

2017-7-14 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
初夏に花を咲かせる花として桐があります。
そろそろ公園などでその美しい花を見かける季節と
なりました。

中国の神話では有徳の帝王を讃え現れる鳳凰は梧桐に
しか住まず、竹の実しか食べないといいます。
これが日本に伝わり、桐が格の高い文様として鳳凰と
共に意匠化されていきましたが、ここで鳳凰が棲むと
された梧桐は、日本でいうアオギリという全くの別種で
中国では昔どちらも「桐」の文字を使用していたため、
この二種が取り違えられたと考えられます。
アオギリは小ぶりの小さい黄色い花を咲かせ、
梧桐は花序をまっすぐに伸ばし、紫色の花を咲かせます。
「枕草子」においても、紫に咲く桐の木の花を風情がある
と讃え、唐土で鳳凰がこの木だけに棲むというのも格別に
素晴らしい」と述べていて、混同されていることがわかります。
しかしながら格調の高い文様として浸透していった
桐の文様は、家紋や装飾文様、茶の湯の世界でも
多く見ることができます。
すぐに思い浮かぶのは高台寺蒔絵。
遠州好の「桐唐草蒔絵丸棗」は、前田家抱えの塗師
近藤道恵の作で朱地に桐唐草が蒔絵されています。
また裂地としては昨年狂言「米一」でご紹介しました
「中興名物 米一茶入」の仕覆「嵯峨桐金襴」や、
大内義隆縁の「大内桐金襴」、他に戦国末期から安土桃山時代
にかけて運ばれた「黒船裂」の桐文などがあります。
また、遠州公は種類の異なる材木を組み合わせ道具を作らせて
おり、「桐掻合七宝透煙草盆」「桐木地丸卓」など、
桐を使用した道具が多く残っています。

水無月

2017-7-7 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
6月は水無月とも言いますが、
梅雨時に水が無い?
と違和感を覚える方もいらっしゃるのではないでしょうか?

この名の由来としては、
そもそも「無」が「無い」ということを表すのではなく、
「の」を表すとする説があります。
また田植えをするとき、田んぼに水をはるので、
「水張り月」といったことから「みなづき」
になったとする説や、
旧暦の6月は現在の暦の7月上旬から8月上旬頃
にあたり梅雨が終わり、真夏の暑い時期であることから
とする説など諸説あります。
いずれにせよ水が人間にとって
大切であったことが伝わります。

茶の湯に見られる文様

2017-7-7 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
毎年5月15日に行われる葵祭は京都の春の風物詩です。
花で飾られた牛車や、輿に乗った斎王代を中心にした行列が、
御所を出て下鴨神社から上賀茂神社を巡幸する雅な様子は
平安の昔を今にみるかのようです。

「源氏物語」の「葵」の帖では、源氏の正妻である葵の上と
六条御息所が、見物の場所をめぐっての車争いが引き起こされます。
車とは貴族が乗る牛車で「御所車」と呼ばれ、後世「源氏物語」の
世界を象徴するものとして、文様として多く描かれました。
草花や流水と組み合わせた華やかな文様は振袖や打掛にも
描かれます。しかしそういった華やかさだけなく、
車の廻るがごとく、人の世は巡り巡るもの・儚いものとした、
車輪を人生になぞらえた無常観を表すものとしての文様、
また仏の道である法輪を象徴するものとしてもとらえられます。

御所車の車輪は木でできていているため、乾燥やひびを防ぐため、
川の流れに浸し置かれました。
そうした当時の光景を文様化した「片輪車文様」は、
水の流れに任せて回転する車と流転する人生とが重ね合わされ
無情感や日本的世界観が構築されていきました。
「片輪車蒔絵螺鈿手箱」は装飾経を収める経箱として
用いられたと言われていますが、その文様に託された隠喩が
関係するのでしょうか。
この図柄を原羊遊斎に模させた松平不昧共箱「蒔絵錫縁四方香合」
があります。また志野や織部にも片輪車を描いたものは多く、
「織部片輪車星文四方鉢」や、赤地に緑釉をかけた珍しい織部に
「山路」と銘をもつ茶碗がありこれにも水辺に上部のみ
姿を見せる片輪車が描かれています。

織部焼茶入「不二」

2017-5-19 UP

織部焼茶入「不二」

ご機嫌よろしゅうございます。
織部焼の茶入に「不二」の銘をもつものがあります。
遠州公が

時しらぬ五月のころの色をみよ
いまもむかしも山はふしのね

との歌銘をつけています。
これは「伊勢物語」所載の

時しらぬ山は富士の嶺いつとてか
かのこまだらに雪の降るらむ

をうけての歌と考えられます。詞書には、
さ月の晦に、ふじの山の雪しろくふれるを見て
よみ侍りける
とあり、五月になっても鹿の子斑に雪が降り積もる
富士山を歌っています。
五月といっても陰暦の五月なので、現在の七月初め頃。
夏のまばゆい青空に東路を進み、駿河の国に着いた男が見た
富士の山は頂に雪をかぶり鮮明な印象です。

後窯に分類される織部「不二」は背の高いすっきりとした形で
肩から胴体にかけて富士山の姿があらわれています。
黒釉が一面にかかり、それが柿色に変化して影富士のような
模様となっています。

4月28日(金)茶の湯に見られる文様「橋」

2017-4-28 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
先週は船をご紹介しましたので、本日は橋を
ご紹介します。

さむしろに 衣かたしき
今宵もや我をまつらむ宇治の橋姫

この歌を歌銘とした瀬戸真中古窯「橋姫」があります。
遠州公がこの茶入を宇治で見つけ、その成り姿を讃え
この銘をつけたとされています。

この「宇治の橋姫」とは橋の守り神であり女神で
もとは宇治橋の三の間とよばれる欄干に橋姫社が
祀られていましたが、度重なる洪水により現在の
宇治橋西詰に移りました。
ちなみにこの三の間から汲み上げられた水は天下の
名水とされ、秀吉は橋守の通円にこの水を汲ませ茶の湯に
使ったと言われています。(この通円は昨年ご紹介した
狂言「通円」につながります。)
同じく「橋姫」との銘をもつ志野の茶碗が、
東京国立博物館に所蔵されています。
橋の欄干部分が二重線で描かれ、両端に擬宝珠、橋脚が二本
非常にシンプルな絵付けの茶碗です。
この志野や織部とほぼ同時期に流行した画題に「柳橋水車図」
があります。
大きな橋、柳と水車、蛇籠
このデザインは宇治橋の風景を描いており、各派によって
描かれましたが、なかでも長谷川等伯を筆頭とする画師集団
の長谷川派の得意とする画題となります。
茶道具でこの意匠を用いた有名なものに野々村仁清作
「色絵柳橋図水指」(湯木美術館蔵)があります。

4月24日(月)御先代 紅心宗慶宗匠七回忌

2017-4-24 UP

平成23年4月24日
御先代の紅心宗慶宗匠が逝去されました。

終戦後四年間、シベリア抑留生活を送り復員。
昭和37年に遠州茶道宗家家元12世を継承され、
書画、和歌、建築、工芸等様々な分野において
の幅広い活躍
平成13年元旦に宗実御家元に遠州流茶道を
引き継ぎ、後見を務められました。
当代ご存命の内に家元を引き継ぐ形は
当時大変珍しく、その様子はドキュメンタリーで
放映されました。
家元を引退されてからも、展覧会や書の個展を開くなど
その才能を発揮されご活躍されていました。

本日は七回忌にあたり、
昨日23日には御先代を偲び追善のお茶会が宗家道場にて
行われました。

4月 14日(金)茶の湯に見られる文様「ふね」

2017-4-14 UP

ご機嫌よろしゅうございます。

先週は「隅田川」をご紹介しました。「隅田川」の形物香合には
約束として、屋形船が描かれていました。
今日は「ふね」にちなんだお話しをしたいと思います。
お正月二日の夜には、枕の下に「宝船」の絵を置いて寝、
吉夢を願います。宝船には宝や俵が積まれ、七福神が乗り込み
前からよんでも後ろからよんでも同じ音になる回文歌が添えられます。

なかきよの とおのねふりの みなめさめ
なみのりふねの おとのよきかな
(長き夜の遠の睡りの皆目醒め
波乗り船の音の良きかな)

その昔、茶は船によって海を渡り日本に伝わり
その道具の多くも舶載され、名物として伝わることとなりました。
また「御所丸茶碗」は、文禄・慶長の役のとき
島津義弘が、古田織部の切形をもとに朝鮮で焼かせた茶碗
交易の御用船である「御所丸船」に乗せて運ばせて、
秀吉に献上したことに由来する名前と言われています。

また航行する船に水脈を知らせるために立てられる杭を
「澪標(みおつくし)」と呼び、胴の景色をその「澪標」に
見立てた織部焼の茶入には遠州公が「源氏物語」「澪標」の帖の

身をつくし恋ふるしるしにここまでも
めぎりあひけるえには深しな
の歌から命銘しています。また、遠州公が景徳鎮窯に注文したとされる
「祥瑞 洲浜茶碗」には漢詩が口辺を巡り、正面に船が描かれています。

4月 10日(月) 茶会のご案内

2017-4-10 UP

ましわりの昔もいまもかはらぬは
み屋ひこころのあへるなりけり

この歌は有栖川熾仁親王の歌です。
遠州公が桂宮智仁親王より拝領した茶入に添えられています。
この茶入の披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室
「転合庵」が東京国立博物館にあり、茶入も所蔵されています。

4月11日より東京国立博物館ではじまる
「茶の湯」美術展
昭和55年(1980)に名家秘蔵の茶道具をとりあげた
初めての展覧会から、実に37年ぶりの開催となります。

遠州流茶道でも4月28日(金)11時から15時の間
お呈茶席を担当致します。
茶の湯道具の数々の名品をご覧になった後ゆったりと
お茶を一服召し上がって下さい。

4月 7日(金)茶の湯にみられる文様 「隅田川」

2017-4-7 UP

春のうららの隅田川 上り下りの舟人が
枴の雫も花と散る 眺めを何にたとふべき

明治時代滝廉太郎の作曲した「花」には穏やかな春の風景がうたわれています。

しかしこの隅田川、「伊勢物語」では旅を続ける男が

名にし負はば いざ事問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと

と歌を詠んで涙を流し、梅若伝説をもとにできた狂女能「隅田川」では
人買いに我が子をさらわれ狂女となった女の悲劇が謡われ、物寂しさが感じられます。

さて「形物香合相撲」番付西方四段目には、染付「隅田川香合」があります。
蓋には対角線上に、川に架かる橋を表わしたハジキ(弦状の摘み)がつけられ、
四方の形に柳と屋台舟が描かれており、
屋形舟は隅田川と結びつく約束となります。
東京国立博物館所蔵「蔦細道蒔絵文台硯箱」には文台・硯箱ともに
『伊勢物語』第九段「宇津の山」を意匠化し、蓋の表裏には蔦細道の場面を、
硯箱の身の見込には流水と都鳥により隅田川の場面を表しています。

3月31日(金)茶の湯に見られる文様「柳」

2017-3-31 UP

3月31日(金)茶の湯に見られる文様
「柳」

ご機嫌よろしゅうございます。
春に掛けられる禅語の中に
「柳緑花紅」があります。
以前メルマガでも何度かご紹介しましたが、
自然の姿そのものが真実だということを表す言葉です。

柳が日本に伝えられたのは奈良時代中期といわれています。
魔よけや邪気払いの植物とされ、送別の時には
柳の一枝を添えるという風習もあり、
茶の湯でお正月に結び柳を飾るのもここに由来します。

「柳」と共に描かれるものに、「燕」や「蹴鞠」があります。
「柳と燕」は初夏に着る着物や帯に多くみられる文様。
柳が芽吹く頃、燕が日本にやってくるため
燕と柳の組み合わせは初夏の情景を表すものとし
て共に描かれることが多く、着物や帯の柄に見受けられます。
絵画では中国南宋時代の禅僧・牧谿の筆と伝わる
「柳燕図」
雨滴をふくんだ柳の小枝に風が吹き、枝にしがみつく二羽の
燕と飛び去る一羽の燕が描かれています。

また「柳と蹴鞠」の文様もよく目にするものですが、
朝廷や公家の間で行われた蹴鞠では、
四隅に「柳、桜、楓、松」を配したところから
「柳と蹴鞠」の文様として定着したようです。