9月9日(金)能と茶の湯

2016-9-9 UP

9月9日(金)能と茶の湯
「三井寺」

ご機嫌よろしゅうございます。

先週は「三井寺」をご紹介しました。
三井の名鐘の縁によって再び巡り会うこと
が叶った母子。
離ればなれになった親子の心情を描く上で
琵琶湖上に輝く名月と湖面に響く鐘の音を配し
非常に美しい謡です。
また三井寺は近江八景「三井の晩鐘」でも有名です。

この三井寺にちなんだ茶の湯道具として
挙げられるのが利休作竹一重切花入「園城寺」です。

三井寺は通称で、正式には長等山園城寺といいます。
天正十八年の小田原攻めに同行した利休が、
伊豆韮山の竹で作った3本の花入の1つとして、竹の正面に樋割れがあることから
園城寺の鐘のひび割れに通じて銘を付けられたといわれています。
これを少庵の土産として持ち帰り
後に松平不昧公の所持となり現在は
東京国立博物館の収蔵品となっています。
【告知】

9月 5日 宗家道場の床の間拝見

2016-9-5 UP

imagepng9月 5日 宗家道場の床の間拝見

ご機嫌よろしゅうございます。

今年の夏は梅雨が長く、天候も不順な日が

多かったような気がしますが、

次第に秋の気配がしてきました。

さて、今月の床の間です。

床 紅心宗慶宗匠筆 掬水月在手

花 被綿菊

花入 手桶

今月の掛物は唐の詩人・于良史の詩で、

「花を弄すれば香衣に満つ」と対句になります。

「水を両手で掬うと、その水に月が映り、

花を手折れば花の香が衣服いっぱいに染み込む」

という意味です。

大徳寺・妙心寺派の禅の直系の祖である、

虚堂智愚禅師が、この句を禅的に解釈して、

提唱に使った為、禅語として愛誦されるようになりました。

花は重陽の節句にちなみまして、被綿菊を飾っています。

こちらは以前ご紹介しましたので、

2014年9月9日のメルマガをご参照下さい。

9月 2日(金) 能と 茶の湯

2016-9-2 UP

9月 2日(金) 能と 茶の湯
「三井寺」

ご機嫌よろしゅうございます。

長月の異名を持つ9月に入りました。
秋の夜長に月を見上げる機会も増えます。
さて、今日は中秋の名月にちなんだお能
「三井寺」をご紹介します。

三井寺では、八月十五日(旧暦)を迎え、
寺の僧たちは月を見ようと待ち構えています。

中秋の名月を鑑賞していると、物狂いの女が現われます。
その女は行方不明となった我が子・千満を探す
旅を続けていたのでした。
京都清水寺で見た霊夢によって三井寺を目指し、
女人禁制の寺に入り込みます。

女は三井寺の鐘の来歴を語り、鐘を撞き始めます。
三井寺の僧の弟子となっていた千満は、
師僧を通じて女の出身地を聞き、声をかけます。
女と千満は互いに母子だと分かり、涙の対面
二人は故郷へ連れ立って帰っていくのでした。

8月 29日(月) 城下町新発田まつり

2016-8-29 UP

8月 29日(月) 城下町新発田まつり

ご機嫌よろしゅうございます。

毎年8月27日から29日まで新潟で開催される
城下町新発田まつりは、江戸時代から続く新発田市
最大の祭りです。中でも祭りの華である新発田台輪は、
1726年(享保11年)頃に6代新発田藩藩主溝口直治が
祭の賑わいを出すため飾り人形の屋台を出すようにと
のおふれを出されたのが始まりと言われています。

6町内が競って繰り出す豪華な台輪は、6町内で
約280年前より大切に伝承されており、山車や法被や
振る舞いにも各々独自で、とりわけ「帰り台輪」は、
男衆が熱い心意気をぶつけ合い街中に台輪を曳きだし、
その勇壮さは多くの観光客を魅了します。

この新発田藩溝口家も代々茶の湯に親しんでおり、
四代重雄の代には小堀遠州四男十左衛門(1639-1704)
との交渉が確認できる資料が残っています。
また重雄は、小堀家の事情により遠州所持の道具五種を
入手するのですが、
この溝口家と小堀家との詳しい関係は、10月10日(月)
の秋季講演会において詳しいお話を聞く事ができます。
ご興味のある方は小堀遠州顕彰会までご連絡下さい。kenshokai@enshuryu.com

8月26日(金) 能と茶の湯

2016-8-26 UP

8月26日(金) 能と茶の湯
「止動方角」

ご機嫌よろしゅうございます。
連日残暑の厳しい日が続きます。

今日は茶の湯が登場する狂言をご紹介します。
「止動方角」
題名を聞いただけでは、なんのことやらさっぱり
わかりません。これはお話に登場する馬を
沈めるための呪文の言葉の一部からとっています。
ではあらすじをご紹介しましょう。

昨今流行している茶の湯。
これをやりたいが道具を何一つ持っていない主人
ある日太郎冠者を呼び出し、裕福な伯父の家へ行って
茶道具と、格好をつけるため馬と太刀を
借りてこいと仰せ付けます。
「茶も持たずに茶比べなどせいでもよいのに」
愚痴をこぼしながら、しぶしぶ叔父のもとに
借りに行った太郎冠者。
そこで借りた馬は咳をすると暴れ、
「白蓮童子六万菩薩、鎮まり給え止動方角」
と唱えると鎮まると教えられます。
待ちかねた主人に叱られ、腹いせに咳をして
主人を落馬させるのでした。
馬は暴れながら橋掛かりの方へ走っていき、
二人して待て待てと追い掛けて退場します。

「茶をもたずに茶比べなどせいでもよいのに」
という太郎冠者の言葉からもわかるように
この狂言の作られた時代は、現在の茶の湯の
スタイルとは若干異なり「茶比べ」
つまり「闘茶」であったことがわかります。

8月 22日(月)南瓜 (かぼちゃ)

2016-8-22 UP

8月 22日(月)南瓜 (かぼちゃ)

ご機嫌よろしゅうございます。
明日23日は二十四節気の「処暑(しょしょ)」
にあたります。
この「処暑」は暑さが止まるという意味で
残暑厳しい日は続いていますが、次第に
朝夕の風に初秋を感じられるようになって
きます。

夏の暑さで体力も落ちているこの時期に
食べるとよい野菜の一つが南瓜。
冬至が有名なので、冬野菜と思いがちですが
実は南瓜の旬は夏なのです。
デンプン質が多めで疲れがとれ、
またビタミンAやCなどのビタミンも豊富
またキュウリなどと同様に瓜科なので、
暑さで弱った体の熱を取ってくれるのだとか。
夏バテ防止、食欲増進が期待できます。

ホクホクの甘い南瓜で、夏の疲れが和らぎます。

8月19日(金) 能と茶の湯

2016-8-19 UP

8月19日(金) 能と茶の湯
「俊寛」

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は、先週ご紹介しました能「俊寛」から
銘のついた茶碗をご紹介します。
黒楽「俊寛」は楽焼の初代、長次郎作の名碗です。
利休が薩摩在住の門人の所望により
長次郎の茶碗を三碗送ったところ、
この茶碗を除く二碗が送り返され、
一つ残されたことからこの銘が付けられたということで す。

箱裏にはこの伝えを踏まえた仙叟宗室の狂歌が、
また、この碗の箱蓋表のほぼ中央に利休筆
と伝えられる「俊寛」と書かれた紙が張られています。
遠州流では楽茶碗を使用しませんが、この俊寛は、先代
紅心宗匠も、当代宗実家元も長次郎作品の中で
一番好きな茶碗であるとおっしゃっています。
現在重要文化財に指定され、三井記念美術館が
所蔵しています。
ちなみに俊寛は願いむなしく三十七歳の若さで
島で亡くなります。現在でもお盆には俊寛を
弔う「俊寛の送り火」が焚かれています。

8月 15日(月)夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)

2016-8-15 UP

8月 15日(月)夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)

ご機嫌よろしゅうございます。

梅雨も明け、暑さの厳しい季節
空は青々として雲の白さが一層際立ちます。
さて風炉の茶席にかけられる禅語に

「夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)」

という言葉があります。
奇峰とは、めずらしい峰の形に見える夏の入道雲
を指します。
雲を峰にたとえ、青空と変化して行く夏雲の織り成す、
夏の雄大な天の光景を歌っています。
これは中国の詩人、陶淵明による
「四時詩(しいじし)」の一部と言われています。

春水満四澤(春には雪解け水で四方の沢が満ち)
夏雲多奇峰(夏には入道雲が峰のように湧きたつ)
秋月揚明暉(秋には月が澄み渡る夜空に輝き)
冬嶺秀孤松(冬には嶺に立つ一本の松のみが高くそびえている。) 
四季の特色を一句五言で表現した句となっています。

8月12日(金) 能と茶の湯

2016-8-12 UP

8月12日(金) 能と茶の湯
「俊寛(しゅんかん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

明日から旧歴のお盆の入りにあたります。
お盆の送り火で有名な大文字山の麓に鹿ケ谷があります。
この地にあった僧俊寛 の山荘で、後白河法皇の近臣により
平氏討伐の謀議が行われました。
今日はこの事件をえがいた「平家物語」の「足摺」の段
を題材にした能「俊寛」をご紹介します。

時は平家全盛の平安末期
平家打倒の陰謀を企てた罪科により、
俊寛は藤原成経、平康頼とともに、薩摩潟
(鹿児島県南方海上)の鬼界島に流されていました。
都では、平清盛の娘で高倉天皇の中宮となった
徳子の安産祈願のため大赦が行われ、鬼界が島の流人も
一部赦されることとなりました。
成経と康頼は、島内を熊野三社に見立てて祈りを
捧げて巡っていました。ある日、島巡りから戻るふたりを
出迎えた俊寛は、谷川の水を菊の酒と見立てて酌み交わします。
ちょうどそこに都の遣いが到着、恩赦の記された
書状を渡します。しかし成経が読み上げるとそこには、
俊寛の名前だけがなかったのです。

驚き嘆く俊寛
舟にすがりついて自分も乗せてほしいと
頼む俊寛を独り残し、舟は都へと戻っていくのでした。

8月8日(月)黒田正玄(くろだしょうげん)

2016-8-8 UP

8月8日(月)黒田正玄(くろだしょうげん)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公の時代に柄杓師として活躍した
黒田正玄をご紹介します。
正玄は天正6年(1578)越前黒田の武家に
生まれます。主家が関ヶ原の合戦で西軍に与し、
一時改易となったことで黒田も二十三歳で剃髪、
「正玄」と称し、近江大津に移り住み竹細工を生業と
するようになりました。

秀吉に柄杓作り天下一の称号を許された一阿弥に
柄杓作りを学び、また遠州公に茶を学びました。
寒暑雨雪を厭わず遠州公の伏見屋敷に毎日通い
稽古を重ねたので、その熱心さから「日参正玄」
と呼ばれました。
その熱意に遠州公も応え正玄に残らず伝授した
と伝えられています。
江月宗玩に参禅し、江月や千宗旦の柄杓も作りました。
その後二代から八代までは将軍家御用柄杓師として、
三代から千家御用となり、現在まで続いています。

(1653)8月8日享年七十六歳で亡くなります。