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茶の湯日記
相応
五月に入り、入学式、入社式等、人生において新しいスタートを迎えた人々も少々
その環境に慣れてくる頃となったのではないだろうか。茶の湯では初風炉の清新な時
季を迎え、露地の木々もすっかり新緑の若葉が目をなごます候である。
遠州流茶道としてのこれらに当たる行事といえば、春季許状式である。毎年の事と
はいえ、遠州公祖堂において、一人ひとりに、お許しを手渡しする際に、私にも様々
な気持ちが沸いてくる。
受伝者の方々が面識のある方であれば、その人となりやお稽古の姿が一瞬私の頭に
よぎったり、また、指導している立場としての喜びを感じたりする。また初めてお目
にかかる人の場合は、とくに相手の方が緊張されているのがわかるので、「おめでと
うございます」の一言で、少しでもそれを柔らげてあげたいと思ったりする。しかし
これは、ほんの一瞬の事なので、そこまで私の気持ちが伝わっているかは判らない。
いずれにしても、何事にも節目というものは大切であり、その節目を多く経験され
た人は、幅広い考え方、思慮深い人格を形成されると思う。常々申し上げている事で
はあるが、私はこの節目を重んじるという考え方は、けじめというものに繋がってい
ると思っている。
けじめという概念は、最近とみに日本人の中では薄れているような気がしてならな
い。この位ならいいだろう、判らなければ何をしてもよい、というのが私たちの周辺
をとりまいている現実である。厚労省や国交省その他、毎日次から次へと私たちの耳
をわずらわすニュースは、それの象徴の最たるものである。そしてこの事が常に繰り
返されるのは、誰も責任を取らないという曖昧さによるものである。日本人は人と協
調したり和を保つ事を大切にしてきた民族である。そこでは、目に見えない妥協や話
し合いといった人生の工夫が必要であった。
しかしそれらが許されたのは、長たる者が節度やけじめを忘れず、そして最終的に
は、責任を取る気概があるからだろう。ここの所が大きなポイントである。
最近、各界のリーダーとなるべき人達と日本について話し合う機会も増えてきてい
るが、いつも話題となるのはこういった事である。「分相応」という表現もある。人々
は多くの可能性を持ち、少しでも自分を高めたいと思うのは大切な志である。そこに
相応という心を失なってはならないのではないだろうか。
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