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茶の湯日記
点初めについて
今年も新年恒例の点初めを無事に勤める事ができた。毎年の事ではあるが、やはり一年最初の行事であるという事で、特に心引き締まるものである。
決まり事として常に変わらぬ事を寿ぐ意味も大切であるが、遠州流では、父・紅心の時から、必ず「今年は」といったテーマを決めて道具組みをしている。何故ならば、時代は常に動きを休める事はなく、世の中の人々の求めているものは実に多様である。したがって、変わってはいけない事、変えていかなければならない事、等々をよく見極めていくという姿勢が大切であると思っている。
という訳で私は、今年のテーマを「心」に決め、向栄亭の床の間に、大徳寺百五十三世沢庵宗彭禅師の書になる「心」の一大字を掛けた。すでに私が十三代を継承し、「茶の湯を通して人の心を豊かにする」を大きな目標として表明している事はご存知と思われる。しかし、二十一世紀になりはや三年目に入ろうとしている現在、世界中の情勢、国内の出来事は、みな心の豊かさの欠如からくる様々な事件ばかりで、心痛むばかりである。もう一度「心」そのものを見直したいというのが私の考えである。
沢庵禅師は、流祖遠州公とも交流は深く、往復の書状も数多く残っている。三代将軍家光公は深く禅師を崇拝し帰依している。また遠州公の禅師にあてた手紙は、何か畏敬の念があるように、特に丁寧に書かれているのである。
この「心」の横に「心広ければ則ち法界にく せまければ針を入れず」と小書きがあり、心の持ち様が書かれている。大きな心を持ちなさい、せまい心はいけません、といった意味にも解せるが、私はもっと拡大解釈をしている。つまり、人に接する時は、大宇宙をも包み込む位の広い心、寛容さを持っていたい、そして自分自身を律していく時は、針も通さない程の覚悟を持ってあるべきである、と考えている。中々このような自分の心持ちを保つ事は難しいと思われるが、今の時代であるからこそ意味深いのである。
今年は父の八十歳の祝いであるというのがもう一つ私の頭の中にあったので、花には、真白な獅子王椿と紅梅を入れ、目出たさを表した。両方とも成越庵の自生のもの、つまり父の丹精そのものとも言える。花入を二重切としたのは、新年と傘寿の慶びが二重であるという事から昨年から決めていた事である。上の花窓には福寿草を入れた。福寿草はその名からしてお目出たいのであるが、福つぐ草ともいって福をつないでいくという意味合いを持たせて用いた。
床の間にだけでも私の思いはこれ程あるのである。これも自分が代を継ぎ実際にあれこれ考えてみてはじめて、父は今までこういった事を思っていた、と気がつかされたとも言えるのである。一つひとつの節目は、単に決まり事としてだけとらえるのでなく、そこに自分なりの意味があってこそ意義が見い出せると思う。
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