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にぎわい草
鎌倉右大臣
世の中はつねにもがもななぎさこぐ
あまの小舟のつなでかなしも
鎌倉三代将軍・源実朝の『新勅撰集』羇旅に「題しらず 鎌倉右大臣」として載る
詠歌である。歌意は普通、世の中はいつまでも変わらずにあってほしいものである、
というのも、今この渚を漕いで行く漁士の、船の舳に綱を掛けて曳く、引舟の綱手縄
を曳くさま、その情景は実に面白いものであり、いつでも眺めたいものであるから、
というように解されている。それは結句の「かなし」の意、愛し・嬉し・悲し・哀れ
など、強く心に感じる、切実に思うこと、しみじみとした情趣のあることを、この歌
の場合は、おもしろい、また、おもむきがある、といった意にとるのが通説であるか
らである。しかしながら、ただ単に?おもしろい?ではなく、舟を曳く漁士の姿に、こ
の世の中を生き抜く力強さ、そこにただよう一抹の悲哀感を「かなし」で表現したと
も思われる。
この歌は二句切りで、三句からは調子も滑らかであるが、二句の「つねにもがもな」
の用い方が特徴といえよう。「が」という希望を表わす終助詞は、下に「も」「な」
を伴い「がも」「がな」となり、詠嘆の係助詞「も」の下について「もがも」「もが
な」ともなり、更に、余情を含み語調を整える終助詞「な」を添える場合もあって、
「もがもな」となることもある。この「もがもな」や「もがも」は『万葉集』に主に
みられ、『古今集』からは「もがな」の使い方が多くなり、後世は「がな」が主に、
用いられるようになる。
実朝は、藤原定家の教えを受けつつも、万葉集に強い影響を受け、独自の表現様式
をつくりあげる。この『百人一首』の歌も、助詞の用い方に万葉調が、二句切りや本
歌取りともみられる技法に新しさがあり、両方がしっくりと融合している。
この歌の載る『新勅撰集』は、第九代の勅撰集で、後堀河天皇の下命により、七十
一歳の定家一人が撰者となり成った歌集で、実朝の詠歌は二十五首入集している。
実朝は、建久三年(一一九二)八月九日、鎌倉初代将軍・源頼朝の次男として生ま
れる。母は、初代執権となる北条時政女・政子である。八歳の建久十年正月十三日、
父頼朝が急死し、建仁二年(一二〇二)十歳上の兄・頼家が征夷大将軍に任ぜられる
が、翌年に病気が悪化して危篤になると、十二歳の実朝は、西国三十八カ国の総地頭
職に補せられて、同年九月二日に頼家が廃されると、七日には従五位下に叙せられ征
夷大将軍に任じられる。十三歳の正月に従五位上になり、早くから京都にあこがれて
いた実朝は、十二月十日には京都の貴族・坊門(藤原)信清女と結婚する。
十四歳の元久二年(一二〇五)大きな転換期を迎える。この年の正月には正五位下
に進み右近衛権中将に任じられたが、閏七月に、祖父であり初代執権の時政が、後妻
の牧方の陰謀にくみして、実朝廃立を策した事件が起こる。しかし、時政の娘・政子
や息・義時がはばみ事なきを得たが、この後、幕府の実権は義時に移り、執権として
敏腕をふるう。そのため実朝は政治から逃避してしまう。
政治から退いた後も実朝は、官途の栄達を望み、十五歳で従四位下、十八歳で従三
位・右近衛中将、二十歳で正三位、二十一歳で従二位、二十二歳で正二位に昇り、二
十五歳の六月に権中納言、七月に左近衛中将と、異例の速さで昇進するが、その九月、
執権・義時の命により大江広元が、官位昇進への願望をいさめたところ、実朝は、源
氏の正統は自分の時で縮まり、終ってしまうので、それならば、官職の地位を得て、
家名をあげようと思っている、というように答えたと『吾妻鏡』は記している。二十
七歳の正月に権大納言に任ぜられたが、大将補佐を望み、三月に左近衛大将を兼任し、
十月に内大臣、十二月二日に右大臣になる。そして翌・建保七年(一二一九)正月二
十七日、鎌倉・鶴岡八幡宮における、右大臣拝賀の式にのぞんだ際、甥の鶴岡八幡別
当の公暁に殺される。二十八歳で、公暁もただちに殺され、ここに、頼朝直系の子孫
は断絶する。そのあとの四代将軍には、『百人一首』九十一番の後京極良経の孫にな
る藤原頼経がなる。
実朝は、十四歳の四月に和歌十二首を詠じ、七月に政治から離れてからは、和歌・
文学絵画・管弦・蹴鞠などに親しみ、成立したばかりの『新古今集』を、九月に入手
してからは一層和歌に気を入れたようで十七歳頃からは『古今集』を読み、十八歳
から定家に師事する。定家からは『万葉集』『近代秀歌』『詠歌口伝』なども贈られ、
歌風も、新古今から古今、万葉と進み、特に万葉集の影響を強く受け、二十二歳頃か
ら万葉調の歌がみられ、晩年は殊に力強い歌風を樹立する。鎌倉に下向した鴨長明を
たびたび引見したのも、和歌への関心の度の深さを示している。
実朝の家集を『金槐集』と称すは、「金」は「鎌倉」の金偏、「槐」は「三槐」の
槐で、三槐は中国・周代に、朝廷の庭に植えた三本の槐 に、最高の地位にあって、
天子を補佐する三公が対座して執務にあたったところから、「三公」の異称となり、
日本では律令制の官職のうち、太政大臣・左大臣・右大臣の総称で、「鎌倉の右大臣
の歌集」の意となる。
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