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にぎわい草

二条院讃岐

  わが袖は潮干に見えぬ沖の石の
    人こそしらねかわくまもなし


 『千載集』巻十二・恋二に「寄石恋といへる心をよめる 二条院讃岐」と詞書があ る。ただし結句は「かわくまぞなき」となっていて異なる。

 私の袖は、丁度潮が引いたあとにさえ、深く海底に隠れて、水面に現われない沖の 石のように、私の思う人は知らないことながら、いつもいつも、ままならぬ恋に悲し む涙に濡れて、乾く間もありません、という意と解せる。

 この歌によって、当時の人は讃岐を「沖の石の讃岐」と呼んだと伝わるように、詠 みにくそうな「寄石恋」という題を、?沖の石?に託して悲しい恋情を歌いあげた。そ の卓越した発想と技倆と共に、平明な表現によって陰鬱さを避け、調子はあくまでも 流麗にして、それでいて苦しい恋に悩む哀感を感じさせるという、秀歌といえよう。

 二条院讃岐は、生没年不詳であるが、永治元年(一一四一)頃、父・源頼政が三十 八歳のころに生まれたと推測される。二条天皇に仕えたことから、この呼称になる。

 讃岐が仕えた二条天皇は、康治二年(一一四三)六月十七日、雅仁親王(後白河天 皇)の第一皇子として生誕、十三歳で皇太子となり、十六歳の保元三年(一一五八) 十二月二十日即位する。朝廷中心の政治を重視し、父・後白河上皇の恣意放漫な院政 を認めずに、対立したといわれるが、病弱のため、永万元年(一一六五)六月二十五 日、皇太子・順仁親王に譲位、七月二十七日の六条天皇即位の翌日、二十三歳で崩御 される。その後、讃岐は、中宮権大進・藤原重頼の妻となり、一男一女を儲けたと伝 わる。

 二条院崩御から十五年後の治承四年(一一八〇)五月二十六日、讃岐は父・頼政を 失うことになる。四十歳ぐらいの頃と思われるが、平氏軍の追撃をうけた頼政は、宇 治川を渡り、平等院に逃れ、自害して七十七年の生涯を終える。

 讃岐の父・源頼政は、清和源氏の庶流・摂津源氏という、宮廷武人の家に生まれ、 武勇をもって知られ、七十五歳で、武家の源氏という家柄では破格の、従三位・非参 議の地位に昇り、源三位頼政と通称されるようになる。しかし当時の朝廷にては、武 将としてよりは、むしろ歌人として高く評価され、院政期歌壇に重要な位置をなした。

 頼政七十六歳の治承三年十一月二十日、平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、院 政を停止させると、翌四年四月九日、後白河院の第二皇子・以仁王をして、平氏討伐 の令旨を、諸国の源氏に発せしむ。ところが事前に発覚し、京都を脱出、奈良・興福 寺を頼りに向う途中の五月二十六日、以仁王は山城国・加幡河原において討たれ、頼 政は宇治で自殺する。

 以仁王は、殷富門院亮子・式子内親の同母弟で、詩歌・笛・学問に秀でられたが、 平氏の圧力により親王宣下を得られず、皇位の望みも絶たれたことにより、平氏討伐 の令旨を出されたが、全国の武士に大きな影響を与え、八月十七日に源頼朝は挙兵す ることになる。

 讃岐が五十歳になった頃の建久元年(一一九〇)藤原(九条)任子が後鳥羽天皇に 女御として入内し、続いて四月二十六日には立后宣下により中宮に立つ。讃岐は中宮・ 任子に再出仕し、内讃岐・中宮讃岐と呼称される。

 讃岐が二度目に仕えた中宮・任子は、九条兼実の長女で、『百人一首』第七十六番 に載る法性寺入道前関白太政大臣こと、藤原忠通の孫、第九十一番の後京極良経の妹 になり、十八歳で中宮、二十三歳で皇女・昇子を生むが、その翌年、父・兼実が失脚 したために、内裏を退出する。讃岐もまた任子の許を辞し、程なく出家し隠棲する。 そして、建保五年(一二一七)頃に七十七・八歳で没したと推定される。任子は、二 十八歳で宜秋門院と称し、二十九歳で出家、六十六歳で亡くなる。

 歌人としての讃岐は、二条天皇に仕えていた頃は、内裏歌壇で活躍し、二条院崩御 後は、四十二歳頃の寿永元年(一一八二)宮司・賀茂重保の勧進による『賀茂社奉納 百首選』に加わり、家集『二条院讃岐集』を自撰したと伝わる。

 六十歳くらいの正治二年(一二〇〇)には、後鳥羽院歌壇に迎えられて、活動を再 開し、『正治初度百首』には、二十三名の歌人の一人として、「春二十首・夏十五首・ 秋二十首・冬十五首・恋十首・羈旅五首・山家五首・鳥五首・祝五首」の百首を詠進 する。

 また、同じ年の九月三十日に後鳥羽院の仙洞御所で催された『院当座歌合』など、 歌合の会にも参加している。『千五百番歌合』という、『仙洞百首歌合』ともいわれ る歌合は、後鳥羽院主催の三十人の歌人による、『第三度百首』を歌合にしたもので、 一人各百首、三千首を判者十名が偏した、歌合史上最大規模のもので、讃岐も詠者の 一人となる。

 最晩年は、後鳥羽院第三皇子・順徳天皇内裏歌壇にても、建保四年の『内裏百番歌 合』に出詠するというように、衰えをみせずして、歌人としての才能は、式子内親王 と併称され、女房三十六歌仙の一人にも入り、勅撰集には、父・頼政より多く、七十 二首入集している。


[小堀宗慶]    [HOME]

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