|
にぎわい草
殷富門院大輔
みせばやな雄島のあまの袖だにも
ぬれにぞぬれし色はかはらず
この歌は『千載集』恋四に「歌合し侍りけるとき恋の歌とてよめる 殷富門院大輔」
として載る。いわゆる題詠であり、京都にあって、東北の名所である松島の、なかで
も聞こえた雄島を詠み込んで、叶わぬ恋に涙する心情を詠じている。その意は、いつ
も濡れている、松島の雄島の漁士の着る着物の袖でさえも、たとえ波に濡れるうえに
もぬれて、びっしょり濡れたとしても、その袖の色までは変わっていない。それなの
に、私の着物の袖はというと、想いとどかぬ恋故に、絶えず流す血の涙のために、紅
に染まっている。この色が変わってしまった私の袖を、つれない人に見せたいもので
あるよ、ということである。あまりにも、悲しみの深さを表現することに意を注いだ
ようで、な・だに・ぞ・は、など強調する語を多用しているが、それが調子を重くし
ていることは歪めない。
この歌は、『後拾遺集』恋四の源重之の詠歌
松島や雄島の磯にあさりする あまの袖こそかくはぬれしか
を本歌としていると伝わるが、それに比して、あまりにも誇張し過ぎで、程度を越え
ている感さえあるが、藤原定家は『百人秀歌』にも採り上げ、高く評価している。
殷富門院大輔(たゆうとも)は、平安時代後期から鎌倉時代初頭にかけての、女流
歌人として知られ、父は藤原信成で、母は文章博士・菅原在良女といわれており、生
没年は不明であるが、大治五年(一一三〇)頃の誕生と推測されている。
殷富門院大輔の呼称は、仕えている亮子内親王が殷富門院の院号を授けられてから
で、大輔というのは本来、律令制における四等官の次官の称である。四等官は、諸官
庁の幹部の四等級の称で、長官を?かみ?、次官を?すけ?、判官を?じょう?、主典を?
さかん?といい、各省庁などで各々に当てる字は異なるが、読みは共通である。大輔
の?輔?というのは、中務省・式部省など八つの省の次官である?すけ?に当てられた字
で、省の輔には大輔と少輔があり、大輔には、中務省では正五位上、他の省では正五
位下の、少輔には、中務省では従五位上、他の省では従五位下の位をもって任じられ
た。因みに省においての、長官には?卿?、判官には?丞?、主典には?録?の字が用いら
れていた。
大輔の仕えた亮子内親王は、大輔より十八歳程下で、久安三年(一一四七)、後白
河天皇の雅仁親王時代に、第一皇女として誕生する。母は藤原季成女・威子、後の高
倉三位である。したがって、式子内親王より二歳上の同母姉となる。亮子は十歳の保
元元年(一一五六)四月十九日、内親王となり即日、伊勢神宮の斎宮に任じられるが、
二年後の保元三年八月十一日、野宮より退下する。大輔は、この頃にはすでに亮子内
親王に仕えていたと考えられ、永暦元年(一一六〇)七月の『太皇太后宮大進清輔朝
臣家歌合』には「女房大輔」が参加している。これが、大輔の現在残る歌合への初出
で、三十歳ぐらいのことである。
その後、嘉応二年(一一七〇)十月九日の『住吉社歌合』、承安二年(一一七二)
十二月八日の『広田社歌合』、治承二年(一一七八)三月十五日の『別雷社歌合』な
どに参加し、前斎院大輔と称されている。そして、亮子内親王が、寿永元年(一一八
二)八月十四日に安徳天皇の准母として皇后となり、文治三年(一一八七)六月二十
八日、皇后宮職を停められ、院号を授けられ殷富門院と称し、後鳥羽天皇の国母と崇
められるが、この時期から大輔も殷富門院大輔と称すようになる。六十歳になる直前
頃と思われる。それから五年後の建久三年(一一九二)、七月十二日に源頼朝が征夷
大将軍に任じられた同じ年の、十一月九日に殷富門院は落飾し、大輔も主君に従って
出家し、正治二年(一二〇〇)頃、七十歳ぐらいで没したと推量されている。
大輔が没した時は五十四歳ぐらいであった殷富門院は、妹の式子内親王より長生き
され、建保四年(一二一六)四月二日、七十歳で亡くなられる? 約四十年間にわたり
歌壇に活躍した、殷富門院大輔は、多くの歌合に参加するとともに、『百人一首』八
十五番の俊恵法師が、京都洛外の白川の自身の僧坊に、四十名ほどの歌人を集めて歌
壇活動を行なった、?歌林苑?にも属し、活躍し、寂蓮や西行、藤原家隆や定家、源頼
政などとも親交があり、晩年の十数年間は、諸寺院で歌合を主
催したという。
歌風は、師とする藤原俊成の流れを継ぐ、当時にあっては革新的・先進的であり、
技法的には「新古今調」の特徴でもある、本歌取りや初句切を多く用い、表現は隠や
かであり、筋の通った叙述の中にも、深い思いが込められていると、評価されている。
現存する作歌は約四百首あり、家集に『殷富門院大輔集』があり、五十五歳から六
十歳頃にかけての自撰といわれている。勅撰集に入る歌は、『千載集』五首、『新古
今集』十首など、『千載集』以下の全勅撰集にわたる六十三首であり、特に定家が単
独の撰者である『新勅撰集』には十五首採られており、定家の評価の高さがわかる。
|