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にぎわい草
寂蓮法師
村雨の露もまだひぬまきの葉に
霧たちのぼる秋の夕暮
寂連は、平安末期から鎌倉初頭にかけての歌人として有名であるが、生年には諸説
があって不明で、保延五年(一一三九)から康治二年(一一四三)頃の生誕と推量さ
れており、建仁二年(一二〇二)七月二十四日に入寂する。父は、御子左家・藤原俊
成の弟・阿闍梨俊海で、藤原定長と名のり、父の出家に伴い、叔父・俊成の猶子とな
り、従五位上・中務少輔に叙任され、四人の男子もえたが、応保二年(一一六二)俊
成に従弟の定家が生まれた後、承安二年(一一七二)頃、三十代半ばで出家し、寂蓮
と称して嵯峨野に庵を結び、その後、諸国行脚の旅に出、高野山で修業もしたという。
建久元年(一一九〇)には出雲大社に参詣し、また東国にも赴いた。境遇は、後鳥羽
院より播磨国・明石に領地を賜わり、かなり豊かであったと伝わる。
若い頃から和歌の才があり、仁安二年(一一六七)の、平忠盛の子で平家歌人の中
心的存在であった平経盛の『太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合』、嘉応二年(一一七〇)
五月二十九日に正二位中納言・藤原実国邸で行われた『左衛門督実国家歌合』、同年
の『住吉社歌合』などに出詠し、出家してからは、治承二年(一一七八)三月十五日、
賀茂別雷社神主である重保主催の『別雷社歌合』、同三年十月十八日の『右大臣藤原
兼実家歌合』に参加する。また、文治元年(一一八五)の『無題百首』、同二年の
『二見浦百首』、同三年の『句題百種』、『殷富門院大輔百首』、建久元年(一一九
〇)の『花月百首』、同二年の『十題百首』など、多くの百首歌に入集している。
建久四年(一一九三)頃、後京極殿・九条良経が左大将であった折りに、歌人十二
名に俊成を判者として催した『左大将家百首歌合』ともいう『六百番歌合』では、御
子左家を代表して、相対する六条家を代表する藤原顕昭と激しい論戦を展開する。
寂蓮は、九条家歌壇を中心として活躍し、後鳥羽院歌壇においても中核をなす歌人
として、重要視されており、正治二年(一二〇〇)の『初度百首』、同年九月か十月
頃に後鳥羽院の仙洞で催された『仙洞十人歌合』、翌建仁元年二月の『老若五十首歌
合』、同年の三月二十九日に新築なった二条殿新宮の落成を祝って催された『新宮撰
歌合』、『院三度百首』、それを歌合にした『仙洞百首歌合』ともいう『千五百番歌
合』など、後鳥羽院の主催する歌合などに、多く出詠・入集している。またこの年に
和歌所寄人となり、『新古今集』の撰者に任命されるが、翌年五月二十六日に後鳥羽
院が鳥羽城南寺で催した『仙洞影供歌合』に参加後に入寂し、『新古今集』の撰者の
任をまっとうすることはできなかった。
『百人一首』に載る歌の意は、ひとしきり降り、すぎ去ったむらさめの、雨の滴も
まだかわかないまきの葉に、いつのまにか、もう白い霧が立ちのぼっている、さびし
い秋の夕暮であると、ということで、?まき?は?真木?で、檜などをほめていう語とい
われる。
この歌は、『新古今集』秋下に「五十首歌奉りし時、寂蓮法師」と載るが、建久元
年の二月十六日と十八日に、後鳥羽院が主催して、十人の歌人を左方に老人、右方に
若者と分けた、それまでにない画期的な、二百五十番の『老若五十首歌合』には、
「百二十五番・左」に採り上げられて、「勝」となっている。
「秋の夕暮」と結ばれて、秋の風情を詠じて著名な「三夕の歌」は、『新古今集』
秋上に
題しらず 寂蓮法師
さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮
西行法師
心なき身にもあはれはしられけり 鴫たつ沢の秋の夕暮
西行法師すすめて百首歌よませ侍りけるに 藤原定家朝臣
みわたせば花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮
と、並んで載ることと、共通して、三句が「けり」で五句が同じ言葉であることで選
ばれ、称されたと思われるが、定家の歌の代わりに、源俊頼の
鶉なく真野の入江の浜風に 尾花波よる秋の夕暮
とする説もあり、または良暹法師の詠じた歌である、
さびしさに宿を立ち出でながむれば いづこもおなじ秋の夕暮
を以ってする場合もあり、寂蓮にしても、この歌よりむしろ『百人一首』の歌の方が、
よりよいとするのが、当然とされてしかるべきである。とはいえ、寂蓮は西行と「三
夕の歌」の作者としては、揺るぎのない位置をしめている。
作風は繊細すぎるくらい技巧的で、詞の使い方も巧妙とされ、書においても、平安
末期から鎌倉初頭の優れた古筆の作品は、西行、藤原雅経と寂蓮の三人の名のもとに
類別されている程である。家集に『寂蓮法師集』があり、勅撰集には十五歌集に百十
六首入る。
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