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にぎわい草
俊恵法師
よもすがら物思ふころはあけやらで
ねやのひまさへつれなかりけり
『千載集』恋二に「恋の歌とてよめる 俊恵法師」として載るが、三句が「あけや
らぬ」となっているところが異なる。
この歌は、女性の心情になって詠じられたものであり、想う男の訪ずれを待ちなが
ら、はたされぬままに、一夜を明かせねばならなかった、胸の内の苦しさを詠じてい
る。
想う人のつれなさを恨んで、悩み、一晩中ずっと物思いにふけっている、この頃は、
こういう夜はせめて早く、明けてくれればよいものを、と思っているのに、なかなか
に明けきれないもので、その上、寝所の戸の隙間までもが、なかなかしまらずに、想
う人だけでなく、寝所の板戸の隙間までもが、冷淡にも無情に、つらく当たることで
あるよ、という意味であり、悶々として一夜を明かした、心の内を詠んだ歌である。
俊恵は、平安時代後期の永久元年(一一一三)に生誕。しかし没年は不明である。
第五十九代・宇多天皇の皇子である敦実親王の子の左大臣・源重信を祖とする宇多源
氏の流れで、その曽孫になる源俊頼の子になり、藤原俊成より一歳上となる。
祖父の経信は、権中納言・道方の子で、正二位・大納言に叙任されただけでなく、
平安時代に漢詩・和歌・管弦の三つの才能を兼ね備えていることをいう?三船(三舟)
の才?とも称されている。右大臣・藤原宗忠は、その日記『中右記』に、経信の死去
に際して、詩歌・管弦に長じ、和漢の学を兼ね、法令にも通じた「朝家之重臣」と賛
えている。
父の俊頼は、父・経信の?三船の才?には及ばなかったが、管弦と和歌の才を得てお
り、堀河院歌壇の中心的存在となり、組題類聚百首の最初となる『堀河院百首』の企
画者といわれ、『永久百首』の歌人となり、多くの歌合の作者・判者として活躍する
とともに、諸家の歌合・歌会を指導し、白河法皇の院宣による『金葉集』を撰しても
いる。
俊頼の歌風は、父・経信の風を発展させ、伝統を重んじながらも、新しさを求め、
新奇な用語と珍しい趣向を重んじた、きわめて革新的な、清新で詩想豊かなものが感
じられる。藤原俊成は、歌学者として重きをなした、保守派の藤原基俊に入門して歌
学を学んだが、作歌の上では俊頼に私淑していたといわれる。定家は『百人一首』に
俊頼の和歌の中から、七十四番に「うかりける人を初瀬のやまおろし はげしかれと
はいのらぬものを」を採り上げている。
俊恵は、幼少の頃から東大寺の僧となっていたといい、公名を大夫公・大進公など
と称する。?公名?というのは、貴族の子弟を弟子とする場合に、父親の官名を用いて、
幼童の呼称としたもので、俊恵の場合には、父・俊頼が従四位下・左京権大夫に叙任
されていたことなどから、つけられたものである。兄の伊勢守俊重も弟の叡山阿闍利
祐盛もまた、歌人として知られ、『千載集』などに入集している。
俊恵は、和歌を幼少の頃から、父・俊頼に習ったといわれるが、十七歳で父と死別
したためか、歌壇に認められたのは遅く、三十四歳になって初めて、『百人一首』七
十九番の「秋風にたなびく雲のたへまより」の作者・藤原顕輔の『左京大夫藤原顕輔
朝臣家歌合』に参加したと伝えられている。以後、四十八歳の永暦元年(一一六〇)
『太皇太后宮大進清輔朝臣家歌合』に「一番 鶯」に「右」として「うぐひすのなき
て木づたふ梅がえに こぼるる露や涙なるらん」など十一首が載り、五十五歳の仁安
二年(一一六七)に成った『太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合』、五十八歳の嘉応二年
(一一七〇)の『住吉社歌合』、六十歳の承安二年(一一七二)『広田社歌合』、六
十七歳の治承三年(一一七九)には、右大臣・藤原兼実の『右大臣家歌合』など、多
くの歌合や歌会に参加している。
また、京都洛外の白川の自身の僧房を提供して、堂上人以外の、いわゆる地下の歌
人を四十名ほど集めた?歌林宛?を主催し、和歌政所・執行となり、歌壇活動を行なっ
た。
俊恵の歌風は、平穏で静寂であるが、俊成は、父の俊頼の歌は鍛錬精巧にして疵の
さすべきなしであるが、俊恵の歌もまたいたれりといふべしといえども、俊頼に比す
るには、およはざること遠し、と述べたという。
俊恵は、祖父・経信、父・俊頼の血を受けた歌人であり歌学者であって、「中古六
歌仙」にも父・俊頼とともに選ばれており、勅撰集には『詞花集』巻第一巻・春の部
に
春ごまをよめる
まこも草つのぐみわたるさはべには つながわぬこまもはなれざりけり
を初め八十五首入集されており、私撰集にも藤原清輔が撰した「続詞花集」巻第二・
春下
藤花をよみ侍りける
木ずゑよりこえて落ちくる藤浪の ゐせきは松のしづえなりけり
以下に多数選ばれ、歌論は門弟の鴨長明の『無名抄』によって窺える。
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