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にぎわい草

西行法師

  なげけとて月やはものを思はする
    かこち顔なるわが涙かな


 『千載集』巻十五・恋五に「月前恋といへる心を詠める 円位法師」とあるを採っ ている。西行が自撰して、藤原俊成が判者として加判・判詞を記した自歌合で、西行 七十歳の文治三年(一一八七)成立して、伊勢の皇太神宮(内宮)に奉納したとされ る『御裳濯河歌合(御裳濯の歌合・三十六番歌合)』には、二十八番にこの歌を左と し、右に、

  しらざりき雲ゐのよそにみし月の 影を袂にやどすべしとは

を載せ、判者の俊成は「(左右)両者共に心ふかくすがたをかし よき持とすべし」 と記して、右の歌も『千載集』に入れている。

 因みに「持」とは、「もち」ともいい、歌合など、いろいろの勝負にて、両方共に 優劣がつかない場合のことで、引分け・勝負なしをいう。

 西行の家は、北家藤原氏・魚名の末裔で、承平・天慶の乱、いわゆる平将門の乱に 武功をたてた、藤原(俵藤太)秀郷の嫡流で、代々衛府に仕える武家で、左衛門尉な どに任じられ、佐(左)藤と呼ばれ、院北面などにも補せられた。奥州藤原氏も秀郷 の流れである。

 西行は俗名を藤原(佐藤)義清(憲清・則清・範清とも)という。父は左衛門尉・ 康清、母は今様・蹴鞠などで名を成した監物・源清経女で、幼少にして父を亡くし、 十六歳頃に徳大寺家の祖である左大臣・藤原実能に家人として仕える。そして、鳥羽 上皇に召され、左兵衛尉に任ぜられ、院北面に補せられ、流鏑馬などの武道に通じ、 和歌・蹴鞠などをもよくした才能を発揮するが、二十三歳で妻子を捨て出家、法名を 円位または西行と称し、号を大本房・大宝房ともいう。出家する一因に、徳大寺左大 臣実能の妹であり、鳥羽天皇の中宮となり、崇徳・後白河天皇を生んだ、待賢門院璋 子を好きになり、あきらめるためであったことが挙げられている。

 『百人一首』のこの歌は、出家しても璋子を想い切れなかったことがあったことを、 後に思い出して作ったといわれ、嘆け、悲しめといって、月が物思いをさせるのか、 決っしてそのようなことはなく、月はただ天空に照っているだけなのに、あたかも月 がそのようにさせるかのように、月のせいにして、涙がこぼれおちることであるよ、 と詠じている。

 出家した西行は、嵯峨・東山をはじめ高野山などに草庵を結び、旅した所は、能因 法師の足跡を慕って陸奥国へ、弘法大師の旧蹟を訪ねては四国へ渡り、また、吉野山 に毎年のように花見に、天王寺・熊野・厳島・伊勢などの寺社、崇徳院の白峰御陵に 詣でて、再度大峯修行もしたという。晩年六十九歳の文治二年(一一八六)には、東 大寺復興大勧進のため、重源の依頼により、再建料としての砂金勧進を行うべく、再 度陸奥の藤原秀衡を訪ねる旅に出た。その往路に鎌倉にて、源頼朝に流鏑馬の技法な どを講じてもいる。西行は、性格が純情で、真実を求め、ただ単に世を厭離した、行 脚の僧ではなかった。

 相対する、鳥羽院の知遇にあずかり、和歌をよくした崇徳天皇に敬慕されていた西 行は、伝統や形式に束縛されず、仏教における世界観を基礎としながら、孤独で漂白 の人生と、自然を見つめて明らかにした心境を、自身の生活体験をとおして詠じ、平 安末期の歌壇にあって、他の追従を許さない、抒情的歌風を確立している。ただ、 『御裳濯河歌合』十八番
  左 おほかたの露には何のなるならん たもとにおくは涙なりけり
  右 こころなき身にも裏はしられけり 鴫たつ沢の秋の夕ぐれ
の、右の歌に西行は心を寄せていたのに対し、俊成は「しぎたつさはのといへる心 
幽玄にすがたおよびがたし 但 左歌 露にはなにのといへる 詞あさきににて心こ とにふかし 勝つべし」とし、左歌を『千載集』にも載せている。ここに両者の微妙 な異いがある。

 勅撰集に入集の歌は、『千載集』に十八首、『新古今集』にはこの集での最高の九 十四首採られ、全て十五集二百五十三首になり、家集に『山家集』(諸本により千五 百五十首から千五百七十首)、『西行家集(西行上人集など)』七百八十六首などが あり、他撰集には『聞書集』『聞書残集』、自撰集には前述の『御裳濯河歌合』同時 期に藤原定家に判者を依頼したが、定家の判詞が遅れて、死の前年に成立して豊受大 神宮(外宮)に奉納された『宮河歌合(続三十六番歌合)』があり、また、晩年の自 撰『山家心中集』がある。

 西行は、文治六年二月十六日、河内国の弘川寺で入寂する。七十三歳であった。か つて
  ねがはくば花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
と詠じ、桜を愛し、二百三十首に及ぶ歌を残した西行らしく思われるが、西行の望み は、二月十五日のお釈迦様の命日に死ぬことであって、その意を汲んで一日違いであっ ても、二月十五日を?西行忌?としている。

 自然の中に、仏道と歌道との融合の境地を求め、見出そうとした、自然歌人という にふさわしい、西行の終焉といえる。


[小堀宗慶]    [HOME]

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