Japaneseenglishfrench

にぎわい草

藤原清輔朝臣

  ながらへばまたこの此や忍ばれん
    うしとみし世ぞ今はこひしき


 藤原清輔は、『百人一首』「秋風にたなびく雲のたへまより」の作者・左京大夫顕 輔の次男として、堀河天皇の長治元年(一一〇四)に生まれる。一説に天仁元年(一 一〇八)ともあるが、長治元年生誕説を採る。

 清輔は、六条家歌学の祖である、六条修理大夫・顕季の孫になり、鳥羽天皇の皇后 であり、近衛天皇の生母の美福門院・得子は従妹である。

 清輔の青年期の事跡はほとんど不明であって、四十四歳の仁平元年(一一五一)に なり従五位上に叙せられ、承安二年(一一七二)六十五歳で正四位下・太皇大后宮大 進に叙任されたといい、白河・鳥羽・後白河の院政期に、鳥羽・崇徳・近衛・後白河・ 二条・六条と移り代わる天皇のもと、七十四年の生を受け、治承元年(一一七七)六 月二十日没す。

 この『百人一首』の歌は、『新古今集』雑下には「題しらず 清輔朝臣」とされる が、家集『清輔朝臣集』によると「いにしへおもひいでられけるころ三条内大臣いま だ中納言にておはしける時つかはしける」とある。

 家集の詞書にある三条内大臣とは、三条内府とも称される、藤原公教といい、清輔 より一歳年上の従兄にあたる。

 公教は、白河天皇の母となる茂子、白河天皇の女御となり鳥羽天皇の母となる苡子 を入内させた。藤原閑院家の七代になり、父・実行は七十一歳で太政大臣にまで昇り つめて、八条太政大臣と称され、その実行の妹で、公教にとって叔母になるのが、鳥 羽天皇の皇后になり、崇徳・後白河両天皇の生母となる、待賢門院・璋子である。こ のような家系にあって公教は、蔵人頭などを経て、三十一歳で正四位下に叙され参議 に任じられ、三十四歳で権中納言、四十七歳で中納言、翌年四十八歳で権大納言にな り、五十五歳にして、大納言を飛び越えて、内大臣に就任し、三年後の七月九日に死 去する。

 したがってこの歌は、公教が権中納言から権大納言に任じられる間、公教三十四歳 から四十八歳、清輔が三十三歳から四十七歳の頃に詠じられたことになる。ちょう ど?保元の乱前夜?とでもいえる。皇室内における、鳥羽法皇・近衛天皇と崇徳上皇の 関係の悪化、藤原摂関家の内紛、源氏・平氏の武士の台頭という、世情の不安に対す る心痛が窺える。

 歌の意味は、このままの状況で、生きながらえていたならば、また、この辛い、い やだと思いながら暮らしている、今この頃が、あの頃はよかったと、懐かしく、恋し く、思い返されることであろうか、いやな世の中であると思って過ごした昔が、今と なっては、恋しく思われるからである、ということで、たとえ憂苦に満ちた過去であっ ても、時間的経過によって、浄化され、美化されて、きれいにみえるものであり、懐 かしくも思えるからであるという、観念的ではあるが、苦悩の現況から逃れようとす る、心理を詠じている。

 歌学・六条家の清輔であるが、歌人としては、四十七歳の久安六年(一一五〇)成 立の、崇徳上皇による『久安百首』の、十四人の歌人の一人に、丹後守顕広(俊成)、 待賢門院堀河などと、父・左京大夫顕輔ともども選ばれてから、歌壇においての地位 を得る。

 四十八歳の仁平元年(一一五一)に父・顕輔が奏覧した『詞歌集』に関して、七年 前に父が崇徳上皇の院宣により、撰集にかかった際の助力をめぐり、不和が生じたが、 結局は和解し、反詞花的撰集である『後葉集』に対しては、『牧笛記』を書し、父を 擁護する。

 また、『続詞花集』は、清輔の撰した私撰集であるが、二条天皇の内意を得て撰集 していたところ、永万元年(一一六五)七月二十八日、天皇が崩御されたため、勅撰 集とはならず、その直後に成ったと考えられており、清輔六十二歳の撰集である。

 家集『清輔朝臣集』は四百四十四首あり、勅撰集には、『千載集』に十九首、『新 古今集』に十二首、以下十三集に採り上げられ、全てで八十九首入れられている。  歌学者としては、祖父・顕季が描かせて、六条家歌学の象徴とした、歌聖・柿本人 麻呂影を父より譲与され、弟の国学者・顕昭と共に努力して、六条家の歌学を大成す る。

 歌論書としては、崇徳天皇に献じた『奥儀抄』、二条天皇に進覧した『袋草子』な どがあるが、特に『袋草子』二巻は著名で、上巻は五十四・五歳、下巻も引き続いて 執筆する。

 『袋草子』は、和歌会における実際の作法や先例故実、和歌序や勅撰集の故実など から、『万葉集』以下の各撰集の特色と問題点も指摘し、歌合の進行のしかたなどの 先例故実などなどを記し、なかでも、上巻の三分の一になる、多くの歌人や詠歌に関 する、逸話の聞書や故実は豊富な実例で記されており、和歌故事の百科全書ともいわ れ、貴重である。

 清輔は当時、歌の家・御子左家の藤原俊成と、学才並び称せられたが、歌では俊成 に及ばずとはいえ、学問の面においては秀でるといわれるほどで、『古今集』など古 典の書写もあり、平安歌学の集大成をなした功績は、大きなものがある。


[小堀宗慶]    [HOME]

COPYRIGHT (C) ENSHUSADO-SOKE