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にぎわい草

左京大夫顕輔

  秋風にたなびく雲のたえまより
    もれいづる月のかげのさやけさ


 『新古今集』秋上に「崇徳院に百首歌たてまつりけるに 左京大夫顕輔」とある。 この「百首歌」というのは、先々回の「崇徳院」で記した『久安百首』のことで、崇 徳院が在位中に「百首」を召されたが、譲位後の康治年間(一一四二・三頃)上皇二 十四・五歳の頃に、第二度の「百首」として、当代を代表する十四人の歌人に題を下 し、御自身も参加されて、上皇三十二歳の久安六年(一一五〇)に成立した歌集であ る。

 歌意は、秋風に吹かれて、たなびいている雲がとぎれる。その雲の切れ間から洩れ 出る月の光の、なんとも明るく、清らかに澄み切っていることであろう、ということ であるが、一見なんでもないような、平凡ともとられがちな描写であるが、「影のさ やけさ」という、体言止ともいう名詞止として、余情を残したところが、この歌の特 徴といえよう。

 藤原顕輔は、『詞花和歌集』の撰者として著名な、平安時代後期の公卿歌人である が、この人の才能はもとより、宮廷内における位置等には、父・顕季の存在が大きく、 まず、顕季とその義父・藤原実季についてふれることにする。

 藤原顕季は、六条烏丸に居住したところから、六条修理大夫と呼ばれ、歌道家とし ての六条家を起こして、その祖となった人である。

 顕季の家は、藤原北家の祖・房前の子・魚名、その子・末茂の流で、末茂から七代 目の美濃守・隆経の子として、顕季は天寿三年(一〇五五)に生まれる。母は白河天 皇の乳母・従二位親子で、白河天皇の二歳下の乳兄弟となり、更に、白河天皇の叔父 にあたる、閑院流・藤原実季の猶子となっている。当時の猶子は、相続を目的としな いで、仮に結ぶ親子関係の子の称で、厳密には養子と区別されている。

 藤原実季は、御堂関白・藤原道長の叔父になる閑院・公季の曽孫で、姉の茂子が、 道長の子・能信の養女として、後三条天皇の女御となり、白河天皇を生んだことによ り、天皇の叔父として正二位・大納言に進み、按察使を兼ねたので、按察大納言と称 され、堀河天皇が踐祚後は、白河院政の別当首座となり、勢威をふるい、上皇三十九 歳、顕季三十七歳の寛治五年(一〇九一)五十七歳で急死する。その没後、七年して 女の苡子が、上皇の意により入内し、康和五年(一一〇三)堀河天皇の女御として鳥 羽天皇を出産する。更に十四年経た永久五年(一一一七)、白河上皇の猶子となって いた、孫の璋子が従三位で入内、鳥羽天皇の女御となり、翌年に立后の宣下があり中 宮と称し、その後、崇徳・後白河両天皇以下五皇子・二皇女を生み、二十四歳で院号 宣下があり、待賢門院と称した。

 また、顕季の孫の得子は、璋子より十六歳下で、十八歳頃に入内し、鳥羽上皇の寵 愛を得て、二十三歳で近衛天皇を出産し、三十三歳で美福門院と称した。

 顕輔の父の顕季は、白河天皇の乳兄弟という立場、天皇の叔父になる義父の後楯を 得て、十八歳で六位蔵人となり、二十一歳で讃岐守に任じられ、以後も継続して国司 を歴任して財力を蓄えたといわれる。三十二歳の白河院政にあたっては、義父と共に 院別当となり、義父の没後は、院政の中心的地位を維持し、実質的な権力と財力は、 藤原北家でも魚名の兄の家系の、道長などの摂関家を凌いだといわれている。一方、 歌道家としては、二十三歳で自邸に歌合を催して以来、公私の歌会・歌合へ多く出詠 し、白河院歌壇を形成し指導に当たり、六十四歳にして初めて、歌聖と称される柿本 人麿像を描かせ、その影供歌合を催し、顕輔・清輔と続く、六条藤原歌学の始祖とし て崇敬された。勅撰入集は五十七首。

 藤原顕輔は、寛治四年(一〇九〇)顕季の三男として生まれる。母は小野宮流大宰 大弐藤原経平女で、伊勢大輔の孫にあたる『後拾遺和歌集』撰者の藤原通俊の異母妹 である。顕輔は、父母の庇護のもと、白河院の覚えもよく、十一歳で堀河天皇の下で 従五位下・蔵人となり、堀河・鳥羽両朝で諸国の国司などを歴任し、鳥羽院創始と同 時に、三十四歳で新院の別当となり、その年の九月に父が死去すると、不遇な時期を 経験するが、四十一歳で崇徳天皇の中宮亮、四十八歳で従三位となり、五十歳で、京 内の行政等を官した京職の、左京大夫を兼務した。近衛天皇の久安四年(一一四八) 五十九歳で正三位に昇り、久寿二年(一一五五)五月七日没する。鳥羽法皇崩御・保 元の乱の前年で、六十六歳であった。

 顕輔は、源俊頼の革新的な作歌法に追従した面もみられるが、父・顕季から、六条 藤原歌学の象徴である人麿像を譲与されたように、父の穏健中正な詠風を継承し、生 新な叙景と滋味ある抒情とに一風を成したと評されている。勅撰集には、三十六歳の 時の『金葉集』に十四首入撰したのを初めとして、全てで八十四首入撰しており、五 十五歳で崇徳院から『詞花集』の撰集の院宣を受け、六十二歳の仁平元年(一一五一) 奏覧している。


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