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にぎわい草

源 兼昌

  淡路島かよふ千鳥のなく声に
    いくよねざめぬ須磨の関守


 『金葉集』巻四・冬に「関路千鳥といへることを詠める 源兼昌」とある。歌の意 味は、この須磨の浦から海を越え、淡路島へ通う千鳥の、ものがなしく鳴く声を聞い て、幾夜目をさますことであろうか、須磨の関の番人は、ということであり、さぞか し、毎晩のごとくに眠りをさまされて、その度毎に、淋しく悲しい思いをしているこ とであろうよ、という風情の心が含まれてもいる。

 詞書によるとこの歌は、いわゆる題詠であるが、あたかも実際の情景を描写したか のような、感すら起こさせられる秀歌であり、藤原定家をして、この歌を本歌とした、
  旅ねする夢路は絶えぬ須磨の関
  通ふ千鳥の暁の声
という一首にあるように、いかに高く評価されていたか、推測されよう。歌人として は格別に名の聞こえた人でないが、この歌が名歌であることによって、定家は人によ らずに、百首中に選んだと考えられる。

 また、多くの注釈が、この歌は『源氏物語』須磨の巻の、
  友千鳥もろごゑになくあかつきは
  一人寝覚の床も頼もし
の歌によっていると指摘しているが、?須磨の巻?の?千鳥?の歌というだけであって、 その作歌手法も異なり、当を得たものとはいえない。

 むしろ、定家もそうであるように、名を残す歌人により、この歌を本歌とされる歌 が詠まれたとし、『百人一首』のこの後に載る、順徳院・源実朝の、
  淡路島通ふ千鳥の声たけぬ
  入る山の端もすみの江の月〈順徳院御集〉
  淡路島かよふ千鳥のしばしばも
  羽掻くまなく恋ひや渡らむ〈金槐集〉
を採り上げる方が、当を得てるといえよう。

 源兼昌は、生没年不詳であるが、美濃守俊輔の第二子で、従五位下・皇后宮大進で あったと伝わり、その他ははっきりしない。

 皇后宮職は、皇后付属の官司として、その庶務を処理した。中央集権国家統治のた めの日本で最初の基本法典『大宝律令』の、行政法である令制では、皇后には中宮職 が付属した。平安朝になり、特に一条天皇の時、皇后・藤原定子と中宮・藤原彰子が 並立したことから、皇后に属していた中宮職を皇后宮職に改め、中宮に中宮職を付し た。

 皇后宮職は二后並立の際の官司であり、一后の場合には中宮職が置かれた。?大進? というのは、『大宝令』の制で、諸官司の幹部の等級「四等官」における、皇后宮職 の判官になる。四等官の官制は、律令国家が形骸化しても朝廷に存続し、長官を?か み?、次官を?すけ?、判官を?じょう?、主典を?さかん?と読むが、官司によってそれ らに当てる文字を異にする。「皇后・中宮職」での長官は?大夫?で、次官は?亮?、判 官が?進?であって、主典を?属?とし、?大進?は慣例として?だいしん?とも呼ぶ。

 従五位下・皇后宮大進であったといわれている、源兼昌であるが、二つの歌合によっ て、わずかながら、その状況が垣間見られる。

 まず、『百人一首』七十六番「わたの原」の作者・藤原忠通が二十三歳で内大臣で あった元永二年(一一一九)七月十三日の「内大臣家歌合」に、「草花」の題で右で 出詠し、
 右勝 散位源兼昌
   秋くれば千くさに匂ふ花の色の
   心ひとつにいかでしむらん
とあり?散位?と記されている。散位というのは、日本では官職を有しない有位を全て いうので、この時は従五位下ではあったが、皇后宮大進ではなかった、ということで あろう。

 また、神祗伯・源顕仲が大治三年(一一二八)九月二十八日、住吉神社の社頭で開 催した「住吉歌合」には、八番で「荻・恋」の題で出詠し、それには、
 右 兼昌入道
  よさのうらにひとむらたてるはまをぎの
  またたぐひなきこひもするかな
とあり、出家していたことがわかるが、これ以後の消息は判明しない。


[小堀宗慶]    [HOME]

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