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にぎわい草
崇 徳 院
瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の
われても末にあはむとぞ思ふ
『詞花集』恋上「題しらず 新院御製」とあり、歌意は、川の浅瀬のところは、と
りわけ流れが早いので、川の中の岩に当たって、いったんせき止められた急流は、た
とえそこで二つにわれ、両方に分かれてしまおうとも、岩をすぎれば、もとのように
再び一つに逢い、一緒に流れるように、二人の仲も今は、人にさまたげられて、滝川
のようにさかれようとも、ゆくゆくは恋しい人と、必ず逢おう、是非とも結ばれよう
と、思っていることであるよ、ということである。
この和歌は、『久安百首』の中の一首で、それには初句と三句が異なっている。
ゆきなやみ岩にせかるる谷川の
われてすゑにもあはんとぞおもふ
『久安百首』は、崇徳上皇が在位中に二度「百首」を召されて、二度目には、当代
の代表歌人十四人に題を下し、御自身も参加されており、数年の内に三人が死亡し入
れ代ったが、上皇三十二歳の久安六年(一一五〇)に成立した。
『詞花集』は、崇徳上皇が二十六歳の天養元年(一一四四)六月に藤原顕輔に院宣
を下して撰集せしめ、顕輔は仁平元年(一一五一)に奏覧したと考えられている。
『久安百首』が成った翌年のことである。
したがってこの歌は、一年たたない間に、上皇御自身が改作されたと推定されてお
り、和歌に卓越されていた上皇らしく、「ゆきなやみ」を「せをはやみ」としたこと
で、一段と生きた表現となり、四句の「われてすゑにも」を「われても末に」と言い
まわしをかえたことも、感情の入れ方と、歌の調子の流れが相共ない、一層の効果を
かもし出して、切迫した意志の強さが、ひしひしと伝わってくる。
崇徳天皇は、元永二年(一一一九)五月二十八日、第七十四代・鳥羽天皇の第一皇
子として誕生、顕仁親王と命名、母は藤原公実女・璋子(待賢門院)。保安四年(一
一二三)五歳の正月二十八日、父・天皇より受禅、践祚(皇太子が天皇の位につくこ
と)し、二月十九日即位された。『百人一首』この歌の前の「わたのはら―」の作者・
藤原忠通が摂政となる。この践祚は、曽祖父の白河法皇の意向による。そして、武家
政権へと移行する、きっかけとなったともいえる?保元の乱?を起こされた。
保元の乱は、その源は白河法皇にあり、それに藤原摂関家内の対立がくわわった政
変である。白河法皇は、御子・堀河天皇が二十九歳で崩御し、五歳で即位された孫の
鳥羽天皇が十五歳の時、養育させていた二歳程上の璋子を天皇の中宮とした。その後、
曾孫の顕仁親王を早く皇位に即かせるべく、天皇に圧力をかけて譲位させ、白河法皇・
鳥羽上皇・崇徳天皇が鼎立することになった。この譲位により鳥羽上皇は、先に藤原
忠実女・泰子を皇后との意志を反対されたこともあり、祖父・法皇に対する確執は一
層増していったと伝わる。
鳥羽上皇は、白河法皇が崩御されると、泰子を皇后とし、寵姫・美福門院の生んだ
体仁親王を三か月で皇太子とし、三歳の永治元年(一一四一)十二月七日、崇徳天皇
に強いて譲位させ、十二月二十七日即位させた。近衛天皇である。上皇は出家し本院
と呼ばれる。
心ならずも在位十九年間、二十三歳で譲位させられた崇徳上皇は新院とよばれ、本
院・新院間の感情的対立は増し、久寿二年(一一五五)近衛天皇が十七歳で崩御され
ても、上皇の皇子・重仁親王をさしおいて、鳥羽法皇は第四皇子である、上皇の弟に
践祚させた、後白河天皇である。このため、崇徳上皇の鳥羽法皇・後白河天皇に対す
る不満はますますつのり、いよいよ深刻なものとなっていったのも、むりはないとい
えよう。
一方、藤原摂関家では、忠実は二人の息子のうち、詩歌・管弦などを良くし、王朝
貴族然とした長男・忠通よりも、和漢の書物や記録を読み、実際の政治にも反映させ
ようとする信念の持ち主とされる、次男の頼長を重んじたが、結局は鳥羽院に、信頼
された忠通が摂関家を守り、意にそわなかった忠実・頼長父子が不遇をかこうことに
なり、同じような境遇にあった崇徳上皇と結びつくようになった。
保元元年(一一五六)七月二日鳥羽法皇が崩御すると、七月十日崇徳上皇・頼長ら
が挙兵した。これが?保元の乱?で、この内乱に平氏と源氏の武士が、大きく関与した
ことが、歴史を変えることになるわけで、崇徳上皇は敗れて讃岐国に流され、頼長は
流矢の傷により死亡し、上皇はその八年後の長寛二年(一一六四)八月二十六日、四
十六歳で崩御され、讃岐院と号されたが、その怨霊が世人をおびやかしたので、十三
年後に朝廷は、崇徳院と諡号し、保元の乱の戦場跡に粟田宮を建立してその霊を慰め
た。
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