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にぎわい草
藤原基俊
ちぎりおきしさせもが露を命にて
あはれ今年の秋もいぬめり
『千載集』雑上「僧都光覚維摩会の講師の請を申しけるをたびたびもれにければ法
性寺入道前太政大臣に恨み申しけるをしめぢがはらと侍りけれど又その年ももれにけ
ればよみてつかはしける 藤原基俊」による。
奈良・興福寺で十月十日より、開基といえる藤原鎌足の忌日である十六日までの七
日間、『維摩経』を講ずる「維摩会」が行なわれる。『維摩経』は、在家仏教者の理
想的人物である維摩詰を中心とした、大乗菩薩の実践道を称賛した代表的経典で、興
福寺の維摩会は、宮中と薬師寺の最勝会と、南京三会と称される勅会で、宮中の最勝
会は特に「御斎会」といい、正月八日から十四日の七日間、護国の経典とされる「金
光明最勝王経」を、諸宗の高僧に講説させる儀式で、国家安穏・五穀成就・天皇の息
災延命を祈願する、宮廷年中行事中第一の法会である。その講師は、結摩会の講師を
勤めた僧が承るのが慣例で、したがって、先ず維摩会の講師に選ばれなくてはならな
い。講師を決定するのは、藤原氏の氏長者であり、当時は法性寺入道前太政大臣こと
藤原忠通で、時は季秋・九月であった。
基俊は、子の光覚を維摩会の講師にしたく、度々忠通に依頼していたが、その望み
はかなえられていない。基俊と忠通の家は、藤原北家の中でも近しく、御堂関白・道
長の長男・頼通の四代後が忠通で、道長の次男・頼宗の孫が基俊である。
そして「しめぢがはら」とは、『新古今集』巻二十・釈教歌にある、清水観音御歌
という
なほたのめしめぢがはらのさせもぐさ
我がよの中にあらむかぎりは
を指す。「しめぢが原」は下野国の名所で、「させもぐさ」は「さしも草」で灸に用
いる「もぐさ」の古語で、自分(清水観音御自身)がこの世の中にあって、衆生に恵
みを施しているうちは、たとえ辛い想いをしていても、いつかは自分の救いの手が届
くことであるから、悲観せずに、それを頼みとし、待っていることであるよ、の意で
ある。
基俊の歌は、このような詞書を理解しておかないと、意味の解からないもので、歌
意は、あれほどかたくお約束してくださりながら、その折りに仰っしゃった「しめぢ
が原のさせもぐさ」のお言葉を、虫がその露を命の糧として生きるように、私も、そ
の露ともいえるあのお言葉を、命とも頼んで、息子の光覚が維摩会の講師に選ばれま
すよう、願っておりましたのにかなわず、その選にもれてしまい、その望みもむなし
く、ああ、またまた、今年の秋も過ぎ去ってゆくようであることよ、ということであ
る。我が子の栄達を願う親心がよく詠まれ、それだけに、かなえられない嘆きが、ひ
しひしと伝わってくる。
藤原基俊は、正二位右大臣・俊家の三男として、康平三年(一〇六〇)生まれる。
祖父が堀河右大臣・頼宗という、藤原北家でも道長の流れの名門の出であったが、叙
爵は遅く承暦元年(一〇七七)十八歳の頃とされ、左衛門佐となり、まもなく従五位
上に叙されたが、永保二年(一〇八二)二十三歳で左衛門佐を辞して、それ以後は叙
爵がなく、従五位上・前左衛門佐で、保延四年(一一三八)七十九歳で出家し、法名
を覚舜とし、金吾入道と称し、康治元年(一一四二)正月十六日八十三歳で没した。
性質が驕慢で、才学を恃んだ、身勝手な性格であったという。
基俊は、?和漢秀才?といわれ、和・漢の学問に深く通じ、漢詩が『本朝無題詩』な
どに作品が載り、今に伝わらないが歌学書も著わしたといい、藤原公任の『和漢朗詠
集』の後につぐ、ほぼ同じ形態の『新撰朗詠集』を編纂し、『万葉集』に訓点を付け
た一人でもある。
また基俊は、公任に次ぐと讃えられ、歌人として声望の高い祖父・頼宗、催馬楽の
名手として聞こえた父・俊家の、血を受け継いだようで、歌壇への進出は、伝承の資
料からは三十四歳と遅いが、四十歳代から源俊頼と、新しい和歌の時代を開く、指導
者としての頭角をあらわし、忠通がまだ内大臣の頃からその知遇をうけ、五十九歳の
元永元年(一一一八)、翌二年の、『内大臣家歌合』などの歌人・判者となっている。
基俊は、俊頼の歌風とは異なり、古代的知識に深く通じたことによる、伝統に裏付
けられた発想、伝統的表現方法を重視し、優雅で格調の高い歌を求めたといわれ、歌
壇の長老として崇敬されたという。藤原定家の父・俊成は、基俊晩年の門弟である。
家集に『藤原基俊集』があり、勅撰集に入る歌は、『金葉集』を始め、『詞花集』
『千載集』『新古今集』『新勅撰集』など十五歌集・百七首である。
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