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にぎわい草
前中納言匡房
高砂のをのへの桜咲きにけり
外山の霞たたずもあらなむ
『後拾遣和歌集』春上に「内のおほいまうち君の家にて人々酒たうべて歌よみ侍り
けるに遙かに山桜を望むといふ心をよめる 大江匡房朝臣」とある。「内のおほいま
うち君」とは「内大臣」で、この場合は藤原師通を指し、永保三年(一〇八三)から
関白に昇進する寛治八年(一〇九四)三月まで内大臣を勤めている。師通二十二歳か
ら三十三歳、匡房四十三歳から五十四歳の間である。
藤原師通は、父に京極殿(後宇治殿)師実、祖父には宇治殿・頼通、そして曽祖父
には御堂関白・道長がいる、藤原氏による摂政・関白の十五人目となり、御二条殿と
称された。若い頃より学問を好み、大江匡房に漢字を学び、また、朝儀・公事の次第
の著述を匡房に依頼している。師通の依頼により匡房が著わしたものが『江家次第』
であり、『江次第』『江抄』『匡房卿次第』ともいい、官名を付した『江中納言次第』
『江帥次第』などの名称もある。その書き始めは定かではないが、執筆は死去の直前
まで続けられたと思われ、成立後間もなくより、朝儀・公事に関する指針として、高
い評価を得ていたようである。
この、百人一首に載る歌は、匡房と師通の親交を背景に、全二十一巻にも及ぶ『江
家次第』執筆中の時期の詠歌となる。
遙か彼方の、山の峰の桜は今満開に咲いたことであるから、心ゆくまで充分に眺め
たいので、人里に近い山には、どうか、眺めをさえぎる、春霞が立たないでほしいも
のである。
「高砂」は、播磨(兵庫県加古郡)の高砂が特に有名で、固有名詞化したが、この
歌の場合は詞書でもわかるように、「たかいさご」の約で、一般的に山とし、「おの
え」も峰とするのがよい。普通「尾上」と書き、山の裾の長くひいた所と見る説と、
「丘」「峰」の字を当て、山の高い所、峰・岡とする説があるが、この歌の場合は
「尾根」で山の頂上の意と解するが、「高砂の」を「をのへ」の枕詞とみる説もある。
「外山」は「奥山」に対する「ふもとの山」人里近い「端山」のことをいう。また、
「あらなむ」の「なむ」は、いわゆる「誂 のなむ」で、他に対してあつらえ望む意
を表わす。酒宴での即興の詠歌として、技倆の高さが評価されている。
大江匡房は、平安時代後期の漢文学者・政治家で、江都督・江帥・江大府卿などと
称す。長久二年(一〇四一)大江氏の嫡流に誕生。曽祖父が、儒者であり、政治家、
和歌も良くし、歌人・赤染衛門の夫としても著名な匡衝で、父は従四位上大学頭・成
衝、母は漢文学者の宮内大輔・橘孝親女。
幼少より人に優れて才智あり、四歳で始て書を読み、八歳にして史記・漢書に通じ、
十一歳で詩を作り、神童といわれる。十六歳で文章得業生となり十八歳で方略試に及
第し、二十七歳で東宮学士に任ぜられ、尊仁親王(後三条天皇)の顧問的存在になる
契機となり、その後、後三条・白河・堀河三代の帝師となる。
治暦四年(一〇六八)二十八歳の四月十九日、後三条天皇践祚と共に蔵人に任じら
れてから、政治家としての道も歩み、翌年には、正月に左衛門権佐、十二月に右少弁
に任じられ、三事兼帯し、三十二歳で備中介・防鴨河使となり、白河天皇の蔵人と東
宮学士を兼ねる。
その後も、三十四歳で従四位下・美作守、四十歳で権左中弁、四十一歳で左中弁に
進み、四十三歳で備前守、式部権大輔、四十六歳で従三位に叙せられ、四十七歳で式
部大輔となる。
四十八歳の寛治二年(一〇八八)正三位となり、参議・左大弁・勘解由長官・式部
大輔・周防権守を兼ねる。五十歳で堀河天皇に「漢書」を御進講、五十四歳で従二位・
権中納言に叙任、五十七歳には太宰権帥を兼任し、翌年に太宰府に下向、四年後に正
二位となり帰洛する。
六十四歳の嘉承元年(一一〇六)中納言を去り太宰権帥に再任したが、赴任しなかっ
た。この頃から病を得たらしい。天永二年(一一一一)七十一歳の七月に、大蔵卿に
任じられたが、十一月五日出家・剃髪、日記を焼かせた後、戌刻(午後八時)死去し
た。
匡房は、和歌においても、専門ともいえる漢文学の知識を根底とした歌風は、平明
なところに特徴があり、後世の歌壇に多大なる影響を与えた。
家集に『江帥集』があり、勅撰集には『後拾遺集』以下に百十三首入撰されている。
著作としては、前述の『江家次第』の他多数あり、『本朝続文粋』『本朝無題詩』
などに多くの作品を残し、匡房の談話を筆録した『江談抄』六巻により、当時の貴族
社会全般に渡り指導的役割を成した、その多様な活躍の一面が窺われる。
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