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にぎわい草
大納言経信
夕されば門田の稲葉おとづれて
芦のまろやに秋風ぞ吹く
夕方になると、門前の田の稲の葉が、そよそよと音を立てて、芦でかりそめに葺い
た小屋に、秋風が吹き寄せてくる、田舎の秋の夕風は、趣きのあるものであるよと、
秋の淋しさをすっきりと表現したこの歌は、『金葉集』秋に「師賢朝臣の梅津の山里
に人々まかりて 田家秋風といへる事をよめる 大納言経信」とあり源経信が、源師
賢の京都・梅津の別荘で詠んだ歌となる。
梅津という場所は、今の京都市右京区、四条通を西へ進み、有栖川を越えた辺り。
嵐山の渡月橋から南下した桂川が、大きく東へ方向を変え、また南へ矩状に曲がる所
で有栖川が合流する。西と南に桂川が流れ、西北から南東に有栖川という地域の、四
条通の南北の地が梅津と呼ばれ、おそらく桂川に近い田園地帯に、師賢の別荘があっ
たと思われる。ちょうど松尾大社と桂川を隔てた東側辺となる。経信もまた、梅津よ
り南の桂川の西、八条通が桂大橋で桂川を渡った、桂離宮のある辺りの桂の里に、別
荘を持っていたという。
この歌の、「夕されば」の「夕さる」は、夕方になることで、「さる」を今はほと
んど「去る」意に用いられているが、本来「来」の字義もある。「稲葉おとづれて」
の「おとづる」も音をたてることで、訪問する意に解してはいけない。「芦のまろや」
の「まろ」も円形ではなく、全くの意味で、屋根も周りも全く芦のみでつくった小屋
ということになる。したがって、稲葉に音をたてさせる動的な風と、芦のまろやかに
吹く、静けさを増す風という、対照的な表情を見事に用いて、秋の夕方の田舎の淋し
さを、一層具体的に表現したこの歌は、『古今集』以来の、沈滞した古典的歌風を打
ち破り、清新の趣を発揮したとして、評価されている。
源経信は宇多源氏で、宇多天皇の皇子・式部卿敦実親王の曽孫にあたる。祖父・重
信が源姓を賜わり臣籍に下り、六条左大臣と称された。父は民部卿道方、母は播磨守
源国盛女。長和五年(一〇一六)に生まれ、六十八代の後一条天皇から、堀川天皇に
至る六朝に歴任し、承徳元年(一〇九七)閏正月六日太宰府において、八十二歳で亡
くなっている。桂大納言と称する。
経信は、十五歳の長元三年(一〇三〇)に従五位下に叙爵されてから、三河権守・
刑部少輔・少納言・左馬頭・右中弁・権左中弁・蔵人頭・右大弁等を歴任し、五十二
歳の治暦三年(一〇六七)参議、延久元年(一〇六九)従三位、同三年正三位、翌四
年従二位と昇り、同年左大弁、六十歳の承保二年(一〇七五)権中納言、同四年には
正二位に昇進し、六十八歳の永保三年(一〇八三)権大納言、寛治五年(一〇九一)
七十六歳で大納言に転じた。この間にも、中宮権大夫・大蔵卿・伊預権守・播磨権守・
勘解由長官・皇后宮大夫等を兼任し、七十九歳の嘉保元年(一〇九四)大宰権師に任
ぜられ、翌年九州に下向し、太宰府で没した。
経信は、倭漢の学を兼ね、法令に通じた明快な決断は「朝家之重臣」と賛えられ、
詩歌・管絃・書画・香道・蹴鞠に長じ、琵琶にも秀でて、桂流の祖とされている。
経信の博識多才は、漢詩・和歌・管絃の三つの才能を兼ね備えている「三船の才」
として、藤原公任と共に特に著名である。
日記に『経信卿記(師記)』、歌集に『大納言経信集』『師大納言集』があり、著
作には歌学書『難後拾遺』が、また漢詩は『本朝無題詩』『中右記部類紙背漢詩集』
等に、文章は『朝野群載』『本朝続文粋』に収められていて、琵琶の『経信卿自筆譜』
も伝えられている。
勅撰集に入る歌は『後拾遺集』以下に八十七首ある。
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