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にぎわい草

良暹法師

  さびしさに宿をたちいでてながむれば
    いづこもおなじ秋の夕暮


 『後拾遺集』秋上に「題しらず 良暹法師」として載り、歌の意味は、あまりに淋 しいものだから、その淋しさに耐えかねて、庵を立ち出でて、心のなぐさみになるか と、あちらこちらと、外の景色を眺めてみたが、どこもかしこもおなじように、淋し くも寂しい、秋の夕暮である、ということである。

 良暹法師は、生没年不詳であり、父祖も不明であるが、母は、『百人一首』五十一 番に、「かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ さしもしらじなもゆるおもひを」の 歌が載る藤原実方の、家の女童・白菊であるといわれ、比叡山祇園の別当といい、平 安時代中期末の、能因法師と同時代の歌人として、かなり重んぜられていたようであ る。

 『後拾遺集』雑三をみると、
  良暹法師大原に籠り居ぬときゝてつかはしける 素意法師
 水草ゐしおぼろの清水そこすみて
 心に月のかげはうかぶや
  かへし 良暹法師
 ほどへてや月もうかばん大原や
 朧の清水すむ名ばかりぞ
  良暹法師の許に遺しける 藤原国房
 おもひやる心さへこそさびしけれ
 おほはらやまのあきのゆふぐれ

とあり、京都の大原に居住していたことがわかる。「大原の朧の清水」は、安徳天皇 の生母・建礼門院が棲居し、後白河法皇が訪ずれた「大原御幸」でよく知られる、天 台宗の尼寺である寂光院に向う、その途中にある小さな池である。

 山城国愛宕郡大原村(現・京都市左京区)は、比叡山麓の山村ながら、京都 から花折峠を越えて、安曇川に沿って北に向かい、若狭国に入り、敦賀・小浜へとい たる、鯖街道ともいわれる若狭街道という、北陸との交通路にもあり、早くから、山 門延暦寺とは深い関係があり、妙法院・青蓮院と山門三門跡の一つである三千院をは じめ、先述の寂光院など天台宗の名刹が多く、そのように縁のある土地なので、良暹 法師も庵を結んだのであろう。

 平安時代後期に成った『袋草紙』の、歌人の逸話などを集成した「雑談」には、 『百人一首』七十四の、源俊頼が大原に遊びに行った際、皆々馬に乗っていたが、俊 頼朝臣「にはかに下馬し給へり」に、人々驚いて問えば、「此所は良暹が旧房なり  いかで乗ながら行んや」と申されたので、同行の人達も感歎して、皆みな馬から下り た、という話があり、いかに良暹が歌人として敬られていたかが、窺われる。

 勅撰集に入る歌は、『後拾遺集』十四首、『金葉集』四首、『詞花集』六首、『千 載集』一首、『新古今集』二首、『続後撰集』『続古今集』『続拾遺集』『新千載集』 『新後拾遺集』各一首の三十二首である。


[小堀宗慶]    [HOME]

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