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にぎわい草
能因法師
あらしふく三室の山のもみぢ葉は
竜田の川の錦なりけり
能因法師は、俗名・橘 永 。長門守元 の子で、一説に兄・為?の養子ともいう。
橘諸兄の十代の孫に当たる
生没年は、家集『能因法師集』の「万寿元年(一〇二四)」に「年三十七」と記載
されていることにより、永延二年(九八八)の生まれとされているが、没年は不明で、
永承五年(一〇五〇)以後の消息が知られないので、其の後、そう隔たない内に没し
たことと、考えられている。
寛弘初年(一〇〇四以降)二十歳前に文章生となり、肥後進士と号し、和歌を藤原
長能に師事したといい、このことは、和歌における?師弟関係?の始まり、最初と、
『袋草子』という平安時代後期の保元二・三年(一一五七〜五八)頃成立の歌学書の
「雑談」という、多数の歌人・詠歌に関する逸話や故事を集めた部に記載されている。
そして二十六歳頃に出家し、法名を最初は融円と号し、後に能因と改めた。摂津国・
古曽部(現・大阪府高槻市の北)に住したことから、古曽部入道ともいう。
歌壇においては、四十八歳の長元八年(一〇三五)高陽院水閣歌合、六十二歳の永
承四年(一〇四九)内裏歌合、翌年の祐子内親王家歌合などに出詠しており、和歌に
おいての地位は、上流社会においても、揺ぎ無いものとしていた。
この、百人一首の歌は、『後拾遺集』秋下に「永承四年内裏歌合によめる 能因法
師」とあり、六十二歳の詠歌ということになる。
歌意は、嵐が吹き荒れて、三室の山のもみじを散らすと、その葉は竜田川に舞いお
りて、あたかも錦の織物の如くに、川面を美しく飾っていることであるよ、とでも解
せよう。
能因法師の詠歌としては、『新古今集』の
夕されば汐風こしてみちのくの
野田の玉川千鳥なくなり
が著名であり、実景描写としての美しさと、和歌という芸術性において秀で、情緒も
豊かに表現されているのに比べ、この「あらしふく―」の歌は、宮中での歌合せの?
晴?の歌であり、技巧的で清新さに欠けるが、京都にありながら、奈良の竜田川の、
嵐に舞い散る美しい紅葉の情景を、目に浮べさせる表現はさすがであり、評価の分か
れる歌である。
三室の山は、奈良の法隆寺の西南、北から南下してきた竜田川が、大和川と合流す
る地点に近く位置する、八十二メートルの丘で、今でも、春は桜、秋は紅葉、の名所
として親しまれているが、現在の?竜田川?は、昔は?平群川?と呼ばれており、能因法
師の頃の?竜田川?は、今の?大和川?であるという。
能因法師には、編書に『玄々書』、歌学者に『能因歌枕』、家集に『能因法師集』
などがあり、中古三十六歌仙の一人でもある。
勅撰集に入る歌は、『後拾遺集』三十一首、『金葉集』二首、『詞花集』四首、
『千載集』三首、『新古今集』十首、『新勅撰集』『続古今集』各三首、『続拾遺集』
一首、『玉葉集』『続後拾遺集』『新千載集』各二首、『新拾遺集』一首、『新続古
今集』三首、合計六十七首である。
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