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にぎわい草

周防内侍

  春の夜のゆめばかりなる手枕に
    かひなくたたむ名こそをしけれ


 『千載集』雑上に、「二月ばかり月あかきよ 二条院にて人人あまたゐあかして物 がたりなどし侍りけるに 内侍周防よりふして まくらをかなとしのびやかにいふを ききて 大納言忠家これをまくらにとてかひなを みすのしたよりさしいれて侍りけ れば よみ侍りける 周防内侍」とある。

 詞書によれば、中春の月影の明かりし夜に、二条院にて、人々が多々居て、夜明し に物語などしていた折りに、内侍の周防が寄り伏して「枕が欲しい」と小声で言うの を聞いて、大納言・藤原忠家が「これを枕にしなさい」とて、腕を御簾の下より差し 入れたるのに、周防内侍が大納言忠家に詠じた、即興の一首である。

 この歌は、詞書と合わせると、主意は三句からで、二句切れとみるべきで、あなた が、枕にしなさいと差し出された腕を、かりそめにも手枕にしたらそのために、なん の甲斐もなく、つまらない浮名が立つでしょうから、そのことが大変残念でたまりま せん。それがたとえ、短かい春の夜の、夢の間程のはかない一刻であったとしても、 という意と解せよう。

 春の「夜」の「夢」ばかりなる「手枕」にと、縁語を続けて用いて、情景が流れる 如くに描写され、その情趣が技巧を感じさせない、流麗な調は見事といえる。そして、 「かひなく」に、手枕の縁語「腕」をも詠み込んで、下の句で、自身の心情を詠いあ げている。

 即興の歌でありながら、縁語や掛詞まで用いており、また、口さがない世間を気に 痛む、女心の弱さも表現されて、当時一流の女流歌人としての、面目躍如たるものが ある。

 この歌に続けて『千載集』は、「と いひいだし侍りければ 返事によめる」とし て、

 契ありて春の夜ふかき手枕を
 いかがかひなき夢になすべき

の、忠家の返歌を載せている。忠家は、『千載集』の撰者・藤原俊成の祖父、『新古 今集』の撰者・藤原定家の曽祖父である。

 周防内侍は、本名・平仲子。生没年不詳。父・平周防守棟仲は、和歌六人党の一人 とされる歌人で、参議・親信の孫で安芸守・重義の子、母は加賀守・源正職の女で、 長元九年(一〇三六)から長久初年(一〇四〇)頃の誕生で、天永二年(一一一一) 頃に没したと推察されている。後冷泉朝(一〇四五―六八)の内侍司に出仕、父の任 国の官名により、周防内侍と呼ばれる。続いて、後三条(一〇六八―七二)、白河 (一〇七二―八六)、堀河(一〇八六―一一〇七)の四朝に、勾当内侍とも称される、 掌侍として奉仕した。また、前の「もろともにあはれとおもへ山桜―」の作者・前大 僧正行尊の叔父にあたる、小一条院の子・源信宗の愛人といわれている。

 内侍は、後宮女司の最高官司である、内侍司の女官の総称であったが、長官の尚侍 (ないしのかみ)が女御・更衣と同様の性格を有するようになってからは、勾当内侍 を通常は単に?内侍?というようになる。勾当とは、事を専ら担当して取りはかる者の 意で、勾当内侍は内侍司の長官の義となり、一説には、次官の典侍(ないしのすけ) の年長の者をいうこともあるが、四名いる三等官の掌侍(ないしのじょう)の第一位 をいい、一の内侍ともいわれ、天皇への奏請の取次ぎ、勅旨を伝達する伝宣を掌 る、 重要な職であった。

 周防内侍の歌は、女流歌人には稀にみる調子の強さがあり、緊縮した気力を示すと いわれている。家集に『周防内侍集』一巻(九十六首)があるが、晩年の作が無いの で、自撰と考えられている。勅撰集に入る歌は、『後拾遺集』以下三十五首である。


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