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にぎわい草
相 模
うらみわびほさぬ袖だにあるものを
恋にくちなむ名こそをしけれ
『後拾遺集』恋四に「永承六年内裏歌合に 相模」とあり、『栄華物語』などによ
ると、後冷泉天皇の永承六年(一〇五一)五月五日の殿上歌合に出された恋の、五番
目の左方で勝った歌である。因みに右は、右近少将・源経俊朝臣の
したもゆる歎きをだにもしらせばや
焼火神のしるしばかりに
の詠歌であった。
文頭の歌の意味は、無情な人の仕打ちを恨み歎いて苦しみ、たえず流れる涙のため、
袖の乾くひまさえもない程に泣きぬれて、朽ちてしまいそうな袖、であることさえ悲
しいのに、そのうえ、恋の浮名を流して、私の名までを、朽ちはてさせてしまうのか
と思うと、ほんとに口惜しく、残念でなりません、ということである。相手の無情さ
のために、恋の苦悩に落ち込み沈んでいると、浮名だけが世に広まってしまい、徒ら
に人々に騒がれている、そのことを悲しみ、口惜しがっている、心情を表現した歌で
あり、妖艶な抒情歌として評価されている。
相模は、相模守・大江公資の妻であったことからの、呼称である。生没年は不詳で
あるが、平安中期・長徳四年(九九八)頃に生誕したと推測されている。乙侍従と名
のり、寛仁三年(一〇一九)頃に大江公資と結婚し、同四年に相模に下向。万寿元年
(一〇二四)夫・公資の任があけて上京する。しかしながら、藤原定頼との恋愛と、
子供がないこともあり、加えて和歌の道への強い執心が、公資との離婚を決意させた
のか、公資が遠江へ赴任すると、入道一品宮脩子内親王家に出任する。
それ以後、宮廷歌壇における活躍が始まるようになり、長元八年(一〇三五)賀陽
院水閣歌合で賞賛を博し、長元八年(一〇三五)弘徽殿女御生子歌合、永承四年(一
〇四九)内裏歌合、同五年・前麗景殿女御延子歌合、同六年・内裏歌合、天喜四年
(一〇五八)の皇后宮春秋歌合等に出詠している。
相模は、公資の妻となって以後、相模国へ下向する以前から、藤原定頼と恋愛関係
にあったようで、京都に戻ってからは、定頼の家に引きとられたこともあるが、再び
離別している。また、大弐資通とも通じていたようで、伊勢や和泉式部のように、か
なり自由な恋愛生活をしていたと見られている。
ただし和歌に関しては、赤染衛門・紫式部・和泉式部と並び称される、平安中期の
有数の女流歌人であり、時には指導的立場で活躍した。中古三十六歌仙の一人でもあ
る。
その和歌は、ひたむきで独創的であり、平安末期の、現実的・意志的な新精神の、
胎動が窺われると評されている。
家集に『相模集』があり、勅撰集に入る歌は『後拾遺集』以下に百八首ある。
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