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にぎわい草

権中納言定頼

  朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
    あらはれわたる瀬々の網代木


 叙景の歌として美しく、優れている。  『千載和歌集』巻六・冬に「宇治にまかりて侍りける時よめる 中納言定頼」とあ り、実景を詠んだものである。

 山川の美しさで知られる宇治の里。琵琶湖を源とする宇治川。霧は、秋に詠まれる ことが多いが、冬も春もたつ。冬の、朝が明けようとする頃、宇治川のあたりに立ち 込めた霧が、とぎれとぎれになり、川の瀬のあちらこちらに設けられた、網代木が、 だんだんと、ずっと遠くまで、現われて、見え渡ってきた、写生の歌であり、写実の 筆致の生動する秀作と、高く評価されている。

 宇治川の網代は、歌材として、万葉の頃から、よく用いられていた。

 網代は、川の瀬に設置する簗のような、魚を捕るための仕掛けで、上流に向かって 杙を打ち並べ、竹や木で、網を引く形に編んで張り、その川下の終端に筌などを配し た設備であり、網代木はその棒杙で、あじろぐいともいう。宇治川の網代は、氷魚を 捕るもので、特に有名であった。氷魚は小鮎の一種で、朝廷に献上する氷魚は、近江 の田上川と山城の宇治川の、各一個所と定められ、秋の終り頃から冬、陰暦の九月か ら十二月、漁が行なわれた。

 藤原定頼は、一条天皇の長徳元年(九九五)生誕。父は四条大納言・公任、母は村 上天皇皇子・四位昭平親王女。曽祖父・小野宮殿実頼、祖父・康義公頼忠は、ともに 摂政関白太政大臣・実頼の父が百人一首にも載る、摂政関白太政大臣・貞信公忠平で ある。父・公任は、博学多芸で、当時、学芸の権威として、並び立つ者がいなかった。

 定頼は、右中弁・蔵人頭・参議を経て、後一条天皇の長元二年(一〇二九)三十五 歳で権中納言に進み、後朱雀天皇の長久三年(一〇四二)四十八歳になり正二位に上 がった。五十歳の寛徳元年(一〇四四)病により出家し、翌寛徳二年正月十九日没し た。享年五十一歳であった。

 父の公任の血を継いだかのように、和歌の道において、名を成していた定頼の話し に、一条天皇が大堰川に行幸された時、父と共に供奉し、各々歌を詠みて奉 るに、 父・公任の、定頼がよき歌を詠むよう願う心に、講師が読み上る定頼の歌を聞けば、

 水もなく見えわたるかな大堰川

とあり、あまりに無器用なと、公任は顔色を変えたが、

 峰の紅葉は雨と降れども

と下の句を読むのを聞き、おもわず笑みがこぼれた、ということがある。そしてこの 歌は、秀歌として、当時の人々を驚嘆させたという。

 中古三十六歌仙の一人であり、勅撰集には、『後拾遺集』十四首、『千載集』三首、 『新古今集』四首、『新勅撰集』二首、『続後撰集』五首、『続古今集』・『続拾遺 集』各一首、『玉葉集』七首、『続千載集』・『続後拾遺集』各一首、『風雅集』三 首、『新千載集』・『新拾遺集』・『新後拾遺集』・『新続古今集』各一首の、四十 六首が載る。

 能書の聞こえも高く、読経に優れていたと伝わり、管絃にも長じていた、定頼であっ たが、性格にやや軽薄さがあり、女流歌人の、大弐三位や相模と親しくなり、浮名を 流したり、小式部内侍に戯言した時に、即座に、

大江山いくの道のとおければ
    まだふみもみず天の橋立



  と読み返えされて、返えす言葉もなく退散したことは、世に知られることとなって、 今に伝わっている。この逸話は、古川柳にても、

 定頼の顔紅葉する大江山

と、採り上げられているほどである。


[小堀宗慶]    [HOME]

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