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にぎわい草

伊勢大輔

  いにしへの奈良の都の八重桜
    今日九重ににほひぬるかな


 『詞花集』巻一・春に「一条院の御時 ならの八重桜を人のたてまつりて侍りける を そのをり御前に侍りければ その花をたまひて歌よめと おほせられければよめ る 伊勢大輔」とあり、昔の都であった奈良の八重桜が、今日は、今の都である平安 京の、帝に献上されて、宮中で、常よりも一層美しく咲き匂っていることですよ、と の即詠である。

 この和歌は、奈良から京都へ遷都されて、約二百年経て詠じられており、ここでは、 唯の地名による奈良ではなく、時間的経過を表わす。?昔の奈良朝?を意識して、?今 の平安朝?を意とする?今日?と対比している。

 「九重」は、宮城・宮中・禁裏。中国では城門が九重あったことによる、称である。  「にほひ」は、嗅覚の匂いのみならずに、視覚の場合にも用いられ、花の色の美し いことで、視覚的な美を表現している。

 即詠ながら、「いにしへ」と「今日」という「古」と「今」、「八重」と「九重」 とが対応し、時間的対比と、"八重の桜"が"九重の内"に咲いているという、縁語の巧 みな用い方、それらが美しく調和されているところが、この和歌の見所であり、作者 の秀でた作意が感じられる。

 伊勢大輔は、生没年不明であるが、三十六歌仙の一人である、神祇大副祭主・大中 臣頼基を曾祖父とする、歌人を輩出した家系で、祖父の能宣も神祇大副祭主であり、 三十六歌仙にも選ばれ、『後撰集』の撰者としても知られている。父の輔親も歌人で、 伊勢の祭主であり、神祇官の大副(大輔)であったことから、その女の作者は伊勢大 輔と称され、「大輔」の読方は「たゆう」と音読みされているが、「おおすけ」「た いふ」の呼称も広く用いられ、この別称の方がかえって、親しみが持てるように思わ れる。

 伊勢大輔は、寛弘五年(1008)の春頃に、一条天皇中宮・藤原彰子(上東門院) に仕え、その頃にこの「いにしへの」の和歌を詠み、一躍にしてその歌才を高く評価 され、彰子の信頼も厚かったという。

 その後、筑前守・高階成順の妻となり、三女を生み、父・夫の死後には出家隠棲し たといわれ、康平五年(一〇六二)頃、七十四歳ぐらいで没したと、推量されている。  同じく上東門院に仕えた、紫式部・和泉式部・小式部内侍などと並び称され、宮廷 歌壇の中心的存在として、歌歴は五十余年にも及び、白河天皇の幼時に、御教育の任 を勤めたとも伝わっている。

 伊勢大輔は即詠に長じ、その才能の豊かさが窺われ、機智にも富み、作風は巧緻に たけ、流麗なることは、当時の宮廷の雰囲気を、かもしだしている、とも評されてい る。

 家集に『伊勢大輔集』があり、百五十一首が収められており、勅撰集に入る歌は、 『後拾遺集』二十七首、『詞花集』二首、『新古今集』七首、『新勅撰集』二首、 『続後撰集』一首、『続古今集』二首、『玉葉集』『続千載集』各一首、『続後拾遺 集』『新千載集』各二首、『新拾遺集』三首、『新続古今集』一首の、計五十一首で ある。  また『後十五番歌合』・『中古三十六歌仙』・『女房三十六歌合』にも選ばれてい て、平安中期を代表する、女流歌人の一人である。


[小堀宗慶]    [HOME]

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