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にぎわい草
赤染衛門
やすらはで寝なましものを小夜更けて
傾くまでの月を見しかな
『後拾遺集』恋二に「中関白 少将に侍りける時 はらからなる人にものいひわた
り侍りけり たのめてまうで来ざりけるつとめて、をむなにかはりて詠める」とある。
これは中関白道隆公がまだ少将であった頃、衛門の兄弟の女にからかって、月日がたっ
てしまったが、ある夜侍っていますと約束して、相手に頼みに待っているようにさせ
ておき、結局出かけて行かなかった事を、早々に彼女に代わって、衛門が詠んでやっ
た歌である。
歌のこころは、この様な事と前から知っていたならば、待ちあわさずに寝ようと思っ
ていたのに、御出でならないという事と知った今は、宵より待って、西の空、傾く迄
になった月を、独り寝もやらず過ごした、という事を詠んだもので、男の不実をなげ
いたことであろう。
「やすらはで」―躊躇しないで、ぐずぐずしないで、という意。「やすらう」は、
ためらう、躊躇する事。寝なましものを―(さきに)寝てしまえばよかったのに、と
いう意である。
作者赤染衛門の母は、初めは平 兼盛の妻であったが、懐妊のままで離別され、大
隅守赤染時用に嫁した。この時用は、衛門尉で有った故、其のむすめを「赤染衛門」
といったのである。生長して御堂関白道長公の北の方・倫子に仕え、大江匡衡の妻と
なった。和歌が巧で、和泉式部と名を列ねられる程であった。
家集には『赤染衛門集』があり、『図書察本』には四百十一首、『群書類集本』に
は六百十一首を収めている。贈答歌が多く、約三分一は他人の作である。勅撰集に入
る歌は、『拾遺集』一首、『後拾遺集』三十二首、『詩花集』八首、『千載集』六首、
『新古今集』九首、『新勅撰集』一首、『続後撰集』六首、『続古今集』三首、『続
拾遺集』四首、『玉葉集』六首、『続千載集』『続後拾遺集』各二首、『風雅集』五
首、『新千載集』『新拾遺集』各五首、『新後拾遺集』一首、合計九十二首の、多数
の作になる。
赤染衛門の内助の功の話しがある。それは、藤原公任が思う所があって、中納言を
辞し奉らんと思われし時、その表文の下書を、当時の名儒である、紀斎名。大江以信
などに依頼し、書いてもらったが、何れも公任の心に叶わず、あらためて衛門の夫・
大江匡衡に依頼した。
匡衡は、やむを得ず、引き受けて帰宅したが、この難儀なる事が、その顔にも出て
いたので、妻の衛門が、何故の難儀か不思議に思って、夫に尋ねたところ、斎名や以
信のような、才学ある人の文章さえ、公任の心をいやす事も出来ないのに、自分がそ
の人達を超えて、表文を書く事は出来ぬのだと、その心くるしさを話したところ、衛
門は暫く思いめぐらせていたが、私が思うに、彼の公任卿は、生得人に誇る、心ある
人なのだから、公任は先祖以来の歴々なるに、近年我身に至りて、昇進が滞って、不
満足なる心を書き給えば、公任卿は必ず受け取るであろうと、助言した。
匡衡は妻の詞に従って、表文のはじめに、「臣は五代の太政大臣の嫡男なり 忠仁
公より以来……」と、その先祖の歴々たるに、我身に至りて、近年官位の昇進が止まっ
ている不幸を、書き続けて、公任卿に其の下書を見せたところ、卿は大に感じ、悦ば
れたのである。この事は全く、妻の衛門の才によるものである。衛門には挙周という
子供があり、和泉守であったが、任はてて後、重病にかかりしに、これは住吉明神の
御祟りなる、という事が言いふらされた。この時に衛門は
かはらんといひし命はをしからで
さてもわかれん事ぞかなしき
たのみては久しくなりめ住よしの
まつ此たびのしるしを見せなん
ちとせよとまだみどり子にありしより
たゞ住よしの松を祈りき
と云う三首の歌を詠み、御弊三本に書きて、彼の社に奉納された。その夜の夢に、白
髪の翁がこの御弊を、手に取りたると見てより、挙周の病が治った、という逸話もあ
る。
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