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にぎわい草
儀同三司母
忘れじの行末までは難ければ
今日をかぎりの命ともがな
『新古今和歌集』巻十三恋三に「中関白かよひそめ侍りけるころ 儀同三司母」と
ある。
和歌の意は、忘れじの=忘れまいという、恋人の誓う言葉をそのまま使用していて、
行末長く忘れまいと、あなたが仰有られるのは嬉しいことですが、人の心は変わり易
いので、遠い行末のことは、はたして頼みに出来るかどうか難しいことですので、有
難いあなたの御言葉を聞いた嬉しい今日、このような幸福な今日を限りに、死んでし
まってもよいと、思うような心境です、ということである。
平安朝の恋の歌は、「我が身をそこに置いて考えなければ、解釈が出来ない」。
『百人一首』には、表面の意より、内面的な歌意を理解出来ないと、本当に理解に苦
しむ。
この和歌を詠んだ女性は、従二位高階真人成忠女で貴子、高内侍とも称し、中関白
道隆の室で、伊周・隆家と、一条帝の中宮定子とを生んだ。
夫の道隆は、前出の右大将道綱母と同じく、藤原兼家の妻の一人である、摂津守藤
原中正女・時姫を母とし、兼家の長男として生まれ、父・兼家、母を同じくする弟、
道兼・道長も関白となり、?中関白?と称された。道綱の異母兄に当る。
高内侍貴子と道隆の長男が伊周で、伊周が儀同三司と称されたので、貴子は「儀同
三司母」と呼称されるようになった。
「儀同三司」とは、儀式の格式が三司と同待遇という意で、日本で「三司」は、太
政大臣・左大臣・右大臣の三大臣をいい、寛弘五年(一〇〇五)宣旨によって、前太
宰権帥従二位・藤原伊周が、朝参の席は三大臣の下だが大納言の上に列して、朝議に
あずかり、大臣に準じて封千戸を賜わってより、儀同三司と号したのに始まる。いわ
ゆる正式な官職ではなく、単に大臣に准じる待遇であったが、これ以降、儀同三司は、
准大臣の異称となる。
伊周は、正暦元年(九九〇)父・通隆が、祖父・兼家の跡を継いで関白となるや、
十七歳で右中将、蔵人頭、正四位下となり、翌年には参議から従三位・権中納言、十
九歳で正三位・権大納言、二十一歳になると、叔父の道長らを超えて内大臣に進んだ。
ところが、翌・長徳元年(九九五)道隆が病気になり、伊周に後任の関白就任をと、
父子で懇望したが認められず、内覧に任じられ、その後、関白並の隨身は得たが、あ
まりにも強引な態度をとったため、一条天皇の心証を悪くし、道隆が没すると、叔父・
道兼が関白に就任した。道兼が数日で没すると、道長が内覧となり、後に右大臣に進
んだ。
その後、伊周と道長との対立は深まり、情勢は緊迫する中、翌年正月、大叔父・為
光のむすめに通う伊周が、その妹に通う花山法皇を誤解し、弟の隆家と示し合わせて、
法皇が通われる道にて、御車に矢を射かけたが、法皇は危うき目に逢ったが、逃げの
びられた。
この事件が表沙汰となり、四月、伊周は太宰権帥に、弟の隆家は出雲権帥に左遷さ
れたが、一条帝の中宮定子の、兄・伊周と隆家を想う心も力となったであろう、翌三
年三月、大赦により罪を免ぜられ、京に帰り、四年後の長保三年(一〇〇一)伊周は
本位に復し、同五年に従二位、そして寛弘五年三十五歳で准大臣・儀同三司となった。
政治面では最早無力であった伊周だが、翌年正月には正二位に進み、その翌年、寛弘
七年正月二十八日、三十七歳で没した。
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