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にぎわい草
藤原義孝
君がため惜しからざりし命さへ
長くもがなと思いけるかな
『後拾遺集』恋の一に「をんなのもとよりかへりてつかはしける」と題しての恋歌
である。その意は、貴女に逢いたい為に、逢う事さえ出来れば、命にかかわるような
事が出来ても、わが命などどうでもよいと思っていたのですが、この度その思いが叶っ
て、こうして逢ってみると、そのどうでもよかった命までも惜しくなり、しかも長生
して、行末久しく契りを結びたさに、寿命の長いこと、こいねがう今の心境です、と
いうようなことでしょう。
藤原義孝は、一条摂政伊尹(「これただ」とも・謙徳公)の四男、母は三品中務卿
代明親王の女恵子女王で、十二歳の時、既に一条院の御前で連歌を巧みに詠んで、一
座の人々を驚嘆せしめたと、云われている。
兄の蔵人少将擧周を前少将、弟の右近少将義孝を後少将といい、兄弟そろって姿形
の評判がよかったが、特に弟の義孝が和歌にすぐれていたので、兄擧周は少しねたま
る心があって、兄弟は必ずしも、むつまじいという事はなかった。
或年、一条院の御前で、人々連歌した時に
秋はたヾ夕まぐれとぞたヾならぬ
と云う句の出来た時、座の方々が声々にこの句を詠じて、是に次ぐ人がなかったが、
義孝少将は此の時十二歳であったが、
萩の上かぜはぎの下露
と附けられたので、人々皆驚き賞嘆しあった。
父の摂政殿は大いに感心して、この事を内込めておけないとして、御堂関白道長公
に、こういう小冠者がかようかようの事を仕った旨仰上られたが、道長公は、子とい
うものは大変可愛らしきものだな、とのみ仰せられ、特別の褒美のお詞もなかった。
父君は「年程もいかぬのに、ゆゝしき事であったよ」と、ねんごろにおほめの御詞が
あると思っていたが、道長公の御詞はまことに常の御詞のみであったので、父として
何とか、十二歳の幼くしての出来ばえと、御堂関白の御むすめの上東内院に、又、か
くかくと申上げた。その時に、中務という歌詠みの女房が内院に、この由を申伝えた
のに、内院の御返事の御詞に、「大変情緒ある下の句の心で、殊にありがたく聞える
のは、人麿、赤人等、昔の大変有名な人々の、再び生れ変ったようだ」と御詞ありと
申伝えて、中務が一首を添えて返事があった、という。その歌は、
萩のはに風おとづるるゆふべには
萩の下露おきぞ増しける
このことは、中務のやさしき心ばえなりとして、世間に広まったという、話が残って
いる。今日の世間では到底考えられぬような、わが国の人々の詠歌による文化、文学
的な素養が偲ばれる事である。この公達等の物語りを聞くと、誠に美しき事のみ多く、
互いの仲たがいも和歌等によりて、めでたく納まる事が、よく理解出来る。
眉目秀麗の才人であったが、惜しいことに、円融天皇の天延二年(九七四)は天下
に痘瘡の病がおこり、若き人々の亡くなる事が多く、九月十六日、此の義孝の御兄前
少将は朝方に亡くなり、この後少将義孝は、兄の後を追う如く、其日の夕刻に二十一
歳の若さで没したのである。
此の頃は、如何なる名医であっても、痘瘡の治術を知る人はなく、その治療の方法
なども、昔物によって見ても、誠におそまつな事で、死を若くして迎えるのも、止む
を得ない事であった。
母北の方も、知能秀れし若き公達の亡くなる事を夢に見て、その夢物語り集も伝え
られている。義孝の御子は、三蹟の一人として能書の名高き、侍従大納言行成卿であ
る。
家集に『藤原義孝集』があり、七十七首を収めている。勅撰集に入る歌は、『拾遺
集』三首、『後拾遺集』七首、『詞花集』一首、『続拾遺集』一首、合計十二首であ
る。
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