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にぎわい草
大中臣能宣朝臣
みかきもり衛士の焚く火の夜はもえ
昼は消えつつ物をこそ思へ
この歌も『詞花和歌集』恋の上に「題しらず」をとして載せてある、恋の歌である。
歌の意は、「御垣守」とは、皇后の御門を守護する人の事である。「衛士」とは、
諸国の軍団の兵士の中から選抜されて、宮城の外門を守護する者で、後の衛門府に属
し、毎年交替した。「衛」は「まもる」とよむ字である。その衛士の焚く火のように、
夜は思う人を恋こがれて胸が燃え、昼はその焼く火も消えるが、それは身も魂も消え
入るように思い悩み、夜となく昼となく、絶えず物思いに苦しんでいる事であるよ、
と切ない恋心を、「もえ」と「きえ」とを時機的に音韻的に、それぞれを対照し、上
手に階詞をととのえている。『中務家集』の「御かき守護士の焚く火にあらねども
我も心のうちにこそ焚け」から、ヒントを得ているようであるが、この歌の方が、そ
の上を行く作品と思う。
大中臣の姓の事は、中臣連鎌足公に藤原氏を賜りしより、其子孫はみな藤原氏となっ
たが、文武天皇の御時、藤原氏の人の中にて、神事にあづかるものは、もとの中臣の
姓にかへるべきよ―と、勅令があったので、此時、藤原意美麿など、中臣の姓に復ら
れた。称徳天皇意美麿の子の清麿に、又、大の一字を賜りてより、大中臣という姓が
出来たのである。
能宣の父・祭主頼基も和歌の上手であったが、その子の能宣に至って、いよいよ歌
よみの名高くなったのである。この名歌をよくした能宣は、天暦年中(九四七〜九五
七)『万葉集』を昭陽舎という所で訓読する人数に入れられ、坂上望城、源 順 、
紀時文、清原元輔と共に、『後撰集』を撰して、世に「梨壺の五人」と絶されたとい
う。
この能宣を若い時に、入道式部御 宮の御子の日に参りて、
ちと世までかぎれる松も今日よりは
君にひかれてよろづ世やへん
という歌を奉った話を、父・頼基に語った。
その時その場に居合わせた人々は、良い歌と言われたという話をした。ところが父・
頼基は、しばらく間をおいて、傍 にあった枕をとって、能宣をはたと打ち、想って
申すには、その歌は大変祝い歌として申し分はないが、汝が何かの拍子に、思わない
昇殿を許されて、天皇の御子の日などには召されたらば、右の様なすぐれた歌を詠ん
でしまった後に、どのような祝歌を詠む事も出来ようか、不覚ものかなと申され、能
宣も顔色を失った、という話が残っている。
又、ある時能宣が、小野宮殿へ参られし時、御簾のうちより、底に日影の見える盃
を出させられ、酒をすすわさせ給いける時に、能宣
ありあけの心地こそすれさかづきに
日影もそひて出ぬと思へば
と詠まれたので、小野宮殿も大変感心したという。
杯 を月にとりなして、日影もそひて出すと詠しは、在明の月ならでは、如何にし
て日影もそっと出ようか、誰もこのような即興の歌は、詠む事は出来ぬであろう。ま
して、貴き宮殿の御前などにて、宮殿の御耳を喜ばすような歌は、中々出来ぬもので
あると。この事を後に、西行法師も伝え聞いて、賞されたということである。
又、順徳院も、能宣、元輔は重代の歌人と、称されたという。此の能宣の子祭主輔
親も、むすめの伊勢大輔も皆、歌詠む事で名高い人々である。
能宣は初め蔵人所に出仕し、後に大副祭主に進み、正四位に至り、一条天皇の正暦
二年(九九一)七十一歳で歿した。三十六歌仙の一人である。
歌集に『能宣朝臣集』があり、勅撰集に入る歌は、『拾遺集』五十九首、『後拾遺
集』二十六首、『詞花集』八首、『新古今集』十一首、『新勅撰集』二首、『続古今
集』三首、『玉葉集』『千載集』各二首、『風雅集』五首、『新千載集』二首、『新
拾遺集』一首、『新後拾遺集』二首、『新続古今集』一首、合計百二十四首が載せら
れている。
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