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にぎわい草

曽根好忠

 由良のとを渡る舟人かぢを絶え
 行く方も知らぬ恋の道かな


 『新古今集』恋一に「題しらず」として記載されている。「由良」は、淡路・丹後・ 紀伊にあるが、作者が丹後の椽であったから、この歌の場合は、丹後国加佐郡の由良 説が有力である。「と」とは「門」(戸の字をあてることもある)で、陸地が両方か ら迫っている間の事で、海峡の事を云っている。「舟人」即ち「船頭」が「かぢを絶 え」とは、舟を漕ぐ櫓櫂の類で、船頭が楫をなくし、その行方も知らぬ、つまり行く 先もわからない、という事である。

 歌の意は、由良の海峡をわたる船頭が、楫をなくして、行先のあてもなくただよっ て、いるように、われも思う人に、この心を通ずるたよりを失って、自分ながら、行 先の恋の道もどうなる事かわからぬ、たよりない恋の道である。失恋の結果、我と我 が心を定める事も出来ない、迷い悩んでいる気持を、舟頭が楫を失ったのにたとえて、 詠んでいるのである。

 曽根の姓は、『姓氏録』に、神饒速日命の六世の孫で、伊香我色雄命の後であると 云う。

 好忠の名を曽丹ともいい、『袋草子』(巻三)に、曽丹は丹後椽と呼ぶのであるが、 人々が始めは曽丹後椽と呼び、其の後は曽丹後と呼んでいたが、後に曽丹後も古い呼 称と云い、曽丹と呼んでいたので、好忠は「嗚呼いつ『そた』と云はれるようになっ たか」と歎息していたと、記されている。

 晩年には六位、宮仕を望んだのに、許されなかったが、歌道には自信を持ち、村上 天皇から一条天皇にかけての頃に活躍したが、身分が低く、天皇の御歌の御遊等には 招かれぬのに、無理に出席して色々と批判もあり、その逸話の多い人であった。三十 六歌仙の一人に撰ばれているが、その逸話には、自らが歌詠みとしての自信に溢れて いる。

 花山天皇の寛和元年(九八五)、二月十三日、円融院の子の日の遊びが船岡で催さ れた。能宣、兼盛、元輔、時文、重之等が御召しにより、衣冠の正装で畏 っている 所へ、烏帽子狩衣の賎しい姿で好忠(曽丹)が現れた。御召しもないのに推参した事 を咎められると、歌よみが召されると聞いて参上した、自分はここに並居る歌人に、 決して劣らぬと云って、立ち去らぬので、歌会の行事の判官代にとがめられ、召しも 無いのに、何とてむりやりに参じたかと、九条師輔公の嫡男、法興院の嫡男、右大臣 兼家公、御弟の閑院大将公季公等に、曽丹は衣の領をとられて、引出されたという事 等が『今昔物語』に掲載されている。これらは、彼の歌に対する自信と、軽卒な振舞 いをする歌人として世間に見られていたのである。

 彼は、作歌においては、鋭い直観でよく対象を凝視し、特に叙景の歌に秀でていた。 主観歌に於いても、時流を抜いて、我が意を鮮明に歌っている。格調や趣向に新味を 持ち、新造語や俗語を自在に使用したので、用語等には無理な所があるが、それだけ に自由奔放、清新な感を与える革新的な存在であった。ただしその性格から、又、そ の手腕を認められながらも、知己を後世に求め、先覚者の淋しさを味わいながら、不 遇な生涯を送った。後代の俊頼は、この革新を継いだ者と見られている。  一条院の御時、江師の記されたものには、「歌よみは道信、實方、長継、輔親、式 部、衛門、曽根好忠」と、此七人をあげられた。

 家集に『曽丹集(曽根好忠集)』あり、五百八十五首を収めている。勅撰に入る歌 は、『拾遺集』『後拾遺集』各九首、『詞花集』十七首、『新古今集』十六首、『新 勅撰集』九首、『続後撰集』『続古今集』各四首、『続拾遺集』二首、『続千載集』 三首、『続後拾遺集』五首、『風雅集』一首、『新千載集』『新拾遺集』各二首、 『新続古今集』『新後拾遺集』各三首、合計八十九首である。

 歌人としては、官位が低いが、異風な歌相があり、後世多くの歌が残されたのであ ろう。

 曽丹についての歌論は、秋葉環氏の説を多く用いた。


[小堀宗慶]    [HOME]

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