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にぎわい草

謙徳公

 あはれともいふべき人は思ほえで
 身のいたづらになりぬべきかな


 謙徳公とは諡 であり、藤原伊尹(これまさとも)のことで、一条摂政と称した。 貞信公(太政大臣・藤原忠平)の孫。九条右大臣・師輔の第一子として延長二年(九 二四)生まれる。母は武蔵守藤原経邦の女・盛子。同じく盛子を母とする妹の安子は、 村上天皇の中宮であり、冷泉・円融両天皇の母である。

 父・師輔の没した天徳四年(九六〇)参議、冷泉天皇即位の康保四年(九六七)従 三位・権中納言から権大納言となり、翌・安和元年(九六八)正三位に進む。

 安和二年三月二十五日の「安和の変」は、左大臣・源高明が左遷された政変で、藤 原氏による他氏排斥運動の最後の事件であり、天皇の外伯父になる伊尹が、伯父の師 尹と共にこの陰謀の主謀者と見なされている。そして安和の変の直後、伊尹は大納言 となり、八月には冷泉天皇が譲位し、弟の円融天皇が即位、伊尹の女で冷泉天皇の女 御・懐子の生んだ、師貞新王(花山天皇)が立大子、というように、藤原忠平の嫡流 で占められた摂関家の地位は盤石となる。

 その翌年、伊尹四十七歳の天禄元年(九七〇)正月に右大臣に任ぜられ、五月には 摂政、七月には従二位と進み、同二年十一月に正二位太政大臣となり、当代、次代の 外戚として、絶大な権力を握り、同三年八月病にたおれ、十一月一日没す。四十九歳。 正一位を贈られ、三河国に封ぜられた。

 伊尹は容貌うるわしく、才学に優れてはいたが、父・師輔が遺誡にて「何事もある を用いて、美麗を求むることなかれ」など、倹約の事を専っぱら言及しているに反し て、分に過ぎた奢を好み、好色でもあったという。

 この「あはれとも」の和歌は、『拾遺集』恋五に「物いひ待りける女の 後につれ なく待りて さらにあはず待りければ」として載るが、「あはれともいふべき人」の 「人」の解釈が、世間一般の人とする説と、相手の恋人に限定する説とがあり、それ によって「あはれ」の意味も違ってくる。

 広く世間一般とすると、「私を深切に いとをしともいひさうなる人は 世に有う とも思はぬ」とか「私が今 この世を去っても お気の毒な人だ というはずの人が あるとは思われないので」、などとなる。

 狭く相手のみとすれば「貴人より外には 私を可愛い者だとも 言ってくれそうな 人は有るようにも思われないので あなたに捨てられたからには」ということになる。  今まで、この二説が言われてきたが、『拾遺集』の詞書によればこの場合、相手の 不信を責める気持で、直接その相手をいい、更に広く一般をもいい含めて、いるので あろう。失恋の苦悩を訴えて、相手の心に一縷の望をかけて、再び恋が実ることを要 望している。悲歎の想いに打ち拉がれながら、恨み言を述べるのは、その心の中に、 思い切れない愛があるからで、この上句には特に、その感が深く、ものの哀れさがよ く表現されている。

 下句は、「私は 空しく思い焦れながら 死んでしまいそうだ」という意である。  伊尹は、和歌に秀でていたので、村上天皇の天暦五年(九五一)二十六歳の十月、 御所の梨壷に和歌所が設置され、蔵人少将から、この別当に転ぜしめられた。この梨 壷において、坂上望城、紀時文、源 順 、大中臣能宣、清原元輔のいわゆる「梨壷 の五人」により『後撰集』を撰んだ時の、指揮者に任ぜられたのである。

 日記に『謙徳公記』、歌集に『一条摂政御集』がある。勅撰集に入る歌は、『後撰』 二、『拾遺』六、『新古今』十、『新勅撰』九、『続古今』二、『玉葉』一、『続後 拾遺』三、『風雅』一、『新千載』二、『新拾遺』・『新後拾遺』各一首、計三十八 首である。


[小堀宗慶]    [HOME]

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