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にぎわい草
中納言敦忠
あひ見ての後の心にくらぶれば
昔はものを思はざりけり
恋の歌が毎号つづくが、藤原定家が何故このような配列にしたのかは、何らかの意
味があるかもしれない。その事は後日の研究にしよう。
この歌は恋歌としても有名で、逢って契りを結んだ以前の、物思いも大抵の事では
なかったのに、今こうして恋が実ってからの心づかいにくらべれば、逢わなかったむ
かしは、このようにもの思いをしなかった頃よりも、切ないおもいはしなかったよう
に思われる、という意で、逢って契りを結んだ後の方が物思いがまさっている、とい
う意である。随分切実な思いを述懐している。
恋に懊悩の月日を送ったものが、いよいよ成就した事は、又、別の不安、動揺、苦
悩があらわれてくる。この日々の思い悩む事に比べれば、以前の物思いは物の数では
なかった、と、逢って後いよいよまさる恋の胸中を述べている。相手の女は解らぬが、
その女に対する誓約書のようなものである。現今と違って、恋には苦労がつきものの
ようで、人生の機微、心理をよく捉えている、と言うべきであろう。
この歌が秀でているという事は、『拾遺集』以後「逢い見ての後」の恋を詠んだも
のが多数あることからもわかる。
『拾遺集』に
逢い見ての後こそ恋はまさりけれ
つれなき人を今は怨みじ
『続千載集』に
逢い見ての後もつらさの変わらずば
唯このまゝに恋いや死なまし
この歌の本歌の回相は『万葉集』に
なかなかに見ざりしよりは相見ては
恋しき心まして念ほゆ
敦忠の父は左大臣時平公、母は在原棟梁の女である。母は初め時平公の伯父大納言
国経卿の妻であり、敦忠を妊娠したまま時平に嫁いでいるので、敦忠はじつはこの国
経の子である。当時も今も変わらないようであった。敦忠は延喜十七年(九一七)二
月十二歳で昇殿を許され、同二十一年正月従五位下に任じ、殿上にて元服をした。二
十二年正月侍従、延長六年(九二八)正月従五位上、同年六月左兵衛佐より次第に昇
進し、天慶二年(九三九)正月従四位上、同年八月参議に任ぜられ、同四年十二月十
二月近江権守を兼ね、同五年三月従三位権中納言に任ぜられ、同六年(九四三)三月
七日三十八歳で薨じた。昇進も早かったが生命も短かった。この敦忠卿は和歌と管絃
に秀でていた。
敦忠は三十六歌仙の一人で、家集に『権中納言敦忠集』があり、『歌仙家集本』
『群書類従本』共に四十六首が収められている。贈答歌を併せ載ているので、敦忠の
歌ばかりではない。
勅撰集に入る歌は、『後撰集』十首、『拾遺集』五首、『新古今』『新勅撰集』各
二首、『続後撰集』『続古今集』『玉葉集』各一首、『続千載集』『続後拾遺集』各
二首、『風雅集』に一首、『新千載集』に二首、『新後拾遺集』一首と合計三十四首
が収められている。
和歌に秀でた敦忠卿の山荘は、西坂本にあった事が『拾遺集』の中で理解できる。
管絃の道に於て名を残した人に、博雅三位と言う人がおり、世に聞えた名手であった。
天慶六年三月七日に三十八歳で亡くなった事は先に述べたが、その卒した後、宮中に
於て管絃の御遊があった時、博雅の三位を呼びにゆかせたが、さしさわりが有り、敦
忠卿も今はなく、博雅三位も待らねば、とその時の管絃の御遊は取り止めになった。
人々は敦忠卿が在世の時は、これ程(御遊が取り止めになった)の事はなく、敦忠卿
によって管絃の御遊は出来たし、今、博雅三位が来宴出来ぬために御遊が取止めになっ
たと云う事は敦忠卿が存命ならば、博雅の三位がこのように重んぜられる事はなかっ
たであろうと、人々のつぶやく声が聞かれたという事である。敦忠卿並に博雅三位は、
音楽の名手として有名であったのである。
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