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にぎわい草

清原元輔

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ
 末の松山波こさじとは


 元輔は、延喜八年(九〇八)の生まれで、その官位は、天慶五年(九四二)正月河 内権掾に任ぜられ、應和元年(九六一)三月監物、二年正月中監物、康保三年(九六 六)正月大蔵少丞、四年民部少丞、十二月大丞に転じ、安和二年(九六九)九月従五 位下に叙せられ、十月阿波権守、天延二年(九七四)周防守、同年八月鋳銭の長官を 兼ね、天元元年(九七八)三月薬師寺の功労によって従五位上に叙せられ、寛和二年 (九八六)正月には肥後守に任ぜられた。

 清原深養父の孫で下野守顕忠(一説には下総守春光)の子であり、母は従五位上筑 前守高向利生の女で、清少納言の父である。「和歌所」でも大役を果し、その昇進ぶ りも見事である。天暦五年(九四二)には源 順 、大中臣能宣、紀時文、坂上望城 の四人と共に、「梨壷」に置かれた「撰和歌所」の寄人として『万葉集』にはじめて 訓点を加え、さらに『後撰集』も撰んだのであり、三十六歌仙にも選ばれている。

 前述の和歌は、『後撰集』恋の部に「心かはりける女に 人に代りて」と有り、歌 の意は、前々から二人が仲のよかった時、「契りきな」約束しましたね、その契りを 結んだ時に、そなたもわれも、たがいに涙にて袖をぬらしながら、たとえいかなるこ とがあろうとも、末の松山を波のこさないように、心の変ることはありませんね、と 契約したのではないでしょうか、という。

 この歌は、歌の作法の倒置法を用いているので、初めの「契りきな」つまり約束を する、この句を第五句「波越さじとは」の下に移して、「波越さじと契りきな」とい うようになる。末の松山は、陸前国宮城郡の海岸にある。「越さじ」は「越すまじ」 で、打消の意志を示している。

 先にも述べたように、倒置法によって詠まれた歌である。『古今集』の陸奥歌に、 (一〇九三)

 君をおきてあだし心をわが持たば
 末の松山浪も越えなむ


(あなたをさしおいて他の人を愛するといふ事が もし私にあるとすれば あの末の 松山を波も確かに越えるでしょう 山を波の越える事がないように 私に心変りはあ りませんよ)

と、あるのが本歌である。

 この歌も、女の恋心を恨み咎める心を詠んでいる、倒置法の和歌である。

 清原氏は代々、歌よみとしての聞こえが高かったが、この元輔に至って、益々その 名が高くなった。この頃迄は、『万葉集』をよみとく人は稀であったので、元輔達に よるこの『万葉集』の訓読は、多くの歌人達にとっては大変役に立ったのである。和 歌勅撰の仰せ事があり「梨壷」に於いて第二の勅撰集である『後撰集』を撰出したの で「梨壷の五人」と云ったが、この五人(先述)の中でも能宣、清輔が特に勝れてい たという事が順徳院の『八雲御抄』に記してあるという。又『撰集抄』の説に、むか し九条殿にて、さるべき人々七夕に扇合の事があった時、中務(三十六人の一人)と いう女房が扇に、

 あまの川かたへ涼しきたなばたに
 あふぎの風を猶やかさまし


という歌を書いたので、殿をはじめ、人々は手毎にとり伝えて、殊に感心していた。 ところが元輔の所へ扇が遅くとどいたので、

 あまの川あふぎの風に霧はれて
 空すみわたるかささぎのはし


という歌を元輔は書いた。双方何れの歌もおもしろく、心かわくばかりであったので、 此の二つの扇が勝にさだまり、其外の扇等は、花のあたりの深山木の心地して、心と どめて見る人もなかったということである。

 元輔は一条院の永祚二年(九九〇)六月、肥後の国司として任地で卒した。八十三 歳であった。

 歌集には『元輔集』があり『歌仙歌集本』に二百六十首、『群書類従本』に百五十 二首が収められている。その詠歌は題材用語等自由で、詠みぶりは、流暢且つ才気に 溢れている、という風評であった。勅撰和歌集にも『拾遺集』四十九首、『後拾遺集』 二十五首、『詞歌』『新古今』各六首、その他各勅撰集に多く載り、合計百五首の詠 歌があり、大変な歌詠みであったことがわかる。


[小堀宗慶]    [HOME]

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