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にぎわい草
壬生忠見
恋すてふわが名はまだき立ちにけり
人知れずこそ思ひそめしか
『古今和歌集』撰者の一人、壬生忠岑の子で、父子して三十六歌仙に入れられてい
る。
父・忠岑が摂津権大目であった、摂津国に生まれ、家は貧しかったが、早くから歌
で知られており、幼少にして宮中に召されもしたが、その後、京都での生活が苦しく、
再び摂津国に佗び住いをする。醍醐天皇の御時、蔵人所に採用せられ、更に御厨子所
の定額膳部となり、天徳二年(九五八)正月には摂津大目に任ぜられ、六位を賜った。
歌意は、恋をしているという、私の評判は早くも立ってしまったことである。私は、
誰にも知られないように、あの人を、ひそかに心のうちに、思いはじめたのだったの
に、ということである。てk日、内裡において歌合の会が行われた際
、前号の平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけり我が恋は 物や思ふと人の問ふ
まで」が右で、二十番の歌として、左に番えられたが、負けに判ぜられた。
この判定は、判者も優劣を定めかねた程、左右ともに名歌で、天皇の御意を伺うと、
天皇がひそかに小さな声で「忍ぶれど色に出でにけり」という兼盛の和歌をつぶやい
ているのを伺って、見当をつけて勝敗を決めたというように、後世まで、優劣の評価
は様々であり、忠見の「恋すてふ」を支持する歌人も多い。
ともあれ、この歌会で、負の判定を下されて以来、忠見は不食の病にかかり、病死
したという、有名な逸話が伝わる。実際には、家集にその後の歌も載るので、疑わし
くもないが、格調も高く、高度な構想力と技巧が要求される、晴れの場の題詠に最も
秀れていた忠見にしてみれば、晴れの場の、この時の歌合が実際問題として、懸命な
仕事であったことは確かであり、大いに影響したであろうことは、うなずかれるわけ
で、この話も忠見の人となりを窺がわせる、一面を伝えるといえよう。
忠見が幼少の砌、宮中に召されたと前述したが、その折り、忠見には乗物がなく、
参内し難き旨を奏上すると、竹馬に乗って参上するよう仰せがあり、それにたいして
竹馬はふしかげにしていと弱し
今夕かげに乗りて参らん
と、馬に鹿毛という毛の色があるところから、竹の節かげと、日の夕陰を通じさせた
歌を詠み、年少の頃から詠歌に秀でた才能を発揮していた。
村上天皇により御厨子所に出仕するよう、仰せ事があった時などは、出仕せよとい
う宣旨が遅かったので
さくら花高き梢になびかずば
かへりやしなん折りわびぬとて
と催促の歌を詠み、蔵人のもとへ送っており、その後、宣旨を賜わり、御厨子所に侍
る事となった際には
年を経てひびきのなだに沈む舟
波のよするを待つにぞ有りける
と詠い、出仕しても禄の給付が遅ければ、またもや催促をするというように、なかな
か人間味に富んだ、歌の背景を多く有していた。
壬生忠見は、位官は低くはあったが、和歌をもって天皇の御愛憐を蒙り、歌をもっ
て禄を食んでいた、というように、歌にたいするきびしさを感じさせる一方、伸びや
かさのある自由さをも、兼ね備えていたようである。
家集に『忠見集』があり、『歌仙家集本』は百六十八首、『群書類従本』は百九十
二首を収めている。勅撰集に入る歌は、『後撰』一、『拾遺』十四、『新古今』五、
『続後撰』四、『玉葉』二、『続千載』一、『続後拾遺』二、『風雅』・『新千載』
各一、『新拾遺』五首、の計三十六首である。但し、『新拾遺』の一首は『風雅』に
源信明とある。
対象をよく考察して自然を詠んだものが多く、忠見の大らかさが表現されている。
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