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にぎわい草
平 兼盛
忍ぶれど色に出でにけり我が恋は
物や思ふと人の問うまで
光孝天皇の皇子是忠親王の曾孫、大宰少貮篤行の第三子で、赤染衛門の実父とも云
われている。村上天皇の天暦四年(九五〇)越前の権守、その後は散位で七年、應和
三年(九六三)四月大監物、康保三年(九六六)正月従五位上となる。同天皇の天徳
四年(九六〇)内裏歌合にも出詠した。一条天皇の正暦元年(九九〇)十二月卒し
た。
平の姓は、桓武天皇の皇子一品?原親王の御子、従四位下高棟王 に、天長二年
(八二五)に平 朝臣を賜ったのが始まりである。
三十六歌仙の一人で、彼の作品には実生活に即して、余裕、耽美、愛、笑等多くの
情緒が含まれている。生活派の歌人としてあげられるのも尤もであり、又、漢学にも
通じている。
歌意は、誰にも知られまいとつつしみ、切ない思いをじっと胸の中に包み、おさめ
ていたが、とうとう顔色にあらわれてしまった事だ。「あなたは何か物思いをしてお
いでですか」と、人がとがめる程に、というこころで、忍んでいたが色に出た事か
な、わが恋の心はと、上へ返して読んでいる。下句のこころは、何か物思いにてもありま
すかと、我が顔色を見て人が思う程になってしまった、というような事である。
この歌の場合、色は顔色や様子、物や思うは物を思うや、何か考え事があるのか
と。このような用い方の時は、単に心配事があるか、の意ではなく、恋煩 をしているの
か、恋に悩んでいるのか、という事である。
兼盛は、もとより和歌をよくし、又、漢学にも秀いで、文才のある人で、若くして
大学寮に入り、及第とて、学問の事に就いて帝の御撰出に召し出され、天暦の頃より
次第に昇進し、天元二年に駿河守に任ぜられた。其国に守たりし時、或る女の、其の
夫が伊豆国に妾を持って帰国しないという訴えを聞き、其の女に手紙を出すよう申付
け、その文に添えて兼盛は、
よこばしるきよみが関にせきすゑて
いづらう事は永く止めよ
と詠じ、申文に書き添えた。其の折、源重之が陸奥より都にのぼるので、その途事、
兼盛の館に宿泊していて、この申文の歌を見て、彼の女にかへし歌をせられた。
関すえぬそらに心の通いなば
身をとどめてもかひやなからん
この事は当時評判になり、藤原清輔の記した『袋草子』にも記している。又、兼盛は
どうしてかわからないが、朝廷へ願ひ出す申文の奥に歌を添えている。その歌は、
澤水に老い行くかげを見るたづの
鳴く音雲井に聞えざらめや
昔はこのように、訴状に歌を書き添えて出した事がまま有ったようで、申文に書いた
歌も『袋草子』に色々と書かれている。
村上天皇の天徳年中に、禁裏で歌合が有った時、兼盛は衣冠正しく陣の座、左方に
身を置いていた。この歌を出したのである。右方は壬生忠見であった。その時の勝負
では、兼盛の『忍ぶれど色に出にけり』という歌が勝ちたる事を聞き及び、ひとり悦
び、其の他の勝負の事も聞かず、拝舞(小おどり)して退出したということである。
家集には『兼盛集』あり、『歌仙歌集本』『群書類従本』共に二百十首ほど収めて
いる。
勅撰集に入る歌は、『拾遺集』三十八首、『後拾遺集』十八首、『詞花集』六首、
『続後撰集』二首、『続古今集』五首、『玉葉集』『続千載集』各二首、『続後拾遺
集』三首、『風雅集』一首、『新千載集』三首、『新拾遺』『新後拾遺集』『新続古
今集』各一首、と勅撰集の各集に記載されて、合計八十三首である。
歌仙の中でも非常に詠歌が各歌集に載せられた歌の名手で、娘は赤染衛門で、名高
い歌詠みであった。
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