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にぎわい草

紀 貫之(二)

 貫之は、勅撰和歌集の最初の『古今和歌集』を撰集した。特筆すべきは、当時は中国 唐宋の影響を受けて、漢詩文が盛行していたが、貫之は仮名文字による「仮名序」を作 った事である。男性が仮名文字で文を書く事は、貫之に始まるとし、当時の仮名文字を 書き習う人は、貫之の『古今集』の序と『大堰河行幸』の序、『土佐日記』を模範とし たのである。『大堰河行幸』の序とは、延喜帝の昌泰元年(八九八)九月に、朱雀上皇 が大堰河へ行幸なされた時の歌の序である。

 延長八年(九三〇)貫之は、土佐守となり土佐国に卦任した。土佐に五ヶ年滞在の中 に、京都より連れて土佐に下った際には、まだいとけなかった娘を、亡くしている。  承平四年(九三四)の十二月、土佐の国務の任が満ちて、同月二十一日に長岡郡の国 府の館を出発した。海辺で馬の餞 を受けていると、二十五日には新任の土佐守の館よ り、文が来て呼ばれて「日一日 夜一夜」と、見送りの饗応があって、二十六日も過ご した。二十七日に土佐の大津より、浦戸という所をさして舟は漕ぎ出され、この日は浦 戸に泊る。二十八日は、浦戸を出て大湊に向かう。

 二十九日に大湊に舟を繋留した時には、此の年は小の月の大晦日であったので、その 国の医師が正月に用いる、屠蘇・白散に酒を添えて、舟へ持参した。翌日の元旦も同じ 所に泊った。元旦にもかかわらず、正月用の品々が入手できず、この日は、都のことの み思いやられ、小家の門の注連縄、鰡の頭、柊 などはいかにと、話しをしている。  此の所に八日迄、風待ちをして、正月九日大湊を出発し、十日は那波の浦に泊り、十 一日に舟を出し、十二日は安芸郡の室津にいたる。それから日を経て、二十一日に室津 を舟出した。

 この度、貫之が土佐国を出発する頃より、海賊共がこの舟を襲うという風聞があり、 もとより海上の風波の恐ろしきこともあり、加えて海賊の恐れもあれば、此の舟の中で 、頭(毛髪)も白くなるほど、心づかいしたようである。  三十日に、淡路の奴島という所を過ぎて、和泉の灘という所に到着すれば、今はもう 、海賊の恐れもないということで、貫之はじめ舟中の人々もようやく落着いた。  二月五日、和泉の灘より舟出し、住吉の渡りを漕ぎ過ぎる頃になり、風波が荒く舟が 進まないので、幣や鏡を海に入れて住吉明神に祈ったところ、海の荒れもようやく静ま った。

 六日、津国の澪標のあたりから、難波津に到着して、川尻に入る。?川尻?とは今で 言う?川口?の意である。ここに着いて舟の人々、男も女も額に手を当てて、喜ぶこと は言語に尽くしがたい。  七日、川尻から舟を入れ、漕ぎ上れば、川の水が乾いていて、これでは一同、舟で上 ることが出来なくて、八日も猶、川の傍に舟を留め置き、鳥飼の御牧という所に泊った 。

 九日、川に水が無いので、一同が力を合わせて舟を引き上げるのにも、舟底を川底に すりつけて、大変に困難をして上った。その途中で、渚の院という所を見ながら上った 。ここは河内国で、今日の牧方になり、昔、在原業平が「世の中にたえて桜の咲かざら ば春の心はのどけからまし」という歌を詠じた所なので、所に似た歌を詠みなどし、そ の宵は、宇土野という所に泊り、十日も留まる。

 十一日、雨がいささか降りやんだので、上ると、東の方に「八幡の宮」、そして山崎 の橋が見えたので、嬉しさは限り無いものであった。  十二日、十三日の両日は山崎に泊り、十四日には雨が降り出したので、京都へ車を取 りにやり、車は十五日に到着した。

 十六日、夕方より京に向かい、月の明るさで桂河を渡り、夜更けて家に到り門を入る と、月明りに見ゆる有り様は、思いの外の荒れようであった。

 『土佐日記』は長文で、文中には和歌もあり、種々の想い出も書き記しているが、土 佐から京都へ上る事は、今日ではいとやさしい事であるが、平安朝期の不便さは想像以 上で、五十五日間もかけて京都に到着したという、様子が書かれている。全文の解説を していると尽きないので、概略のみを記した。いずれ、定家―遠州と引き継がれた『土 佐日記』の全文を、紅心宗慶が改めて一冊とすることを約して、この貫之の項を終る。


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