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にぎわい草
紀 貫之(一)
人はいさ心も知らずふるさとは
花ぞ昔の香に匂いける
紀貫之は、醍醐天皇の延喜五年(九〇五)勅撰和歌集の詔を受け、紀友則、凡河内躬
恒、壬生忠峯らと事に従い、友則の歿後は中心となって活躍し、『古今集』二十巻を撰
し、自らの仮名序もつけて奏上した。
貫之に関する物語は沢山ある。特に『古今集』二十巻を作成した事は誰もが知る事で
ある。貫之の身分は当時は御書所預という微官であったが、同十七年には累進して従五
位下加賀介となり、醍醐天皇の延長八年(九三〇)には土佐守となった。『古今集』の
中の秀歌を中心として厳選した『新撰和歌集』はこの年に出来上がった。
朱雀天皇の承平四年(九三五)十二月には守の任期満ちて、その帰りに『土佐日記』
が出来た。この時代は漢文盛行の時代であったが、女子に仮託しての仮名文字による日
記は、特に注目に値するものである。
『土佐日記』については後記するが、藤原定家も冊子として是を世に残し、小堀遠州
もまた定家の『土佐日記』を実に丁寧に書写している。私も余生あるうちに、この『土
佐日記』を冊子に書写し、後世に伝えたいと考えている。
表記の「人はいさ」の歌は、『古今集』巻一春上に、
「はつせにまうづる毎に やどりける人の家に 久しく宿らで 程へて後にいたれり
ければ かの家のあるじ かく定かになむやどりはある といひ出だして待ければ そ
こに立てりける梅の花を折りてよめる つらゆき(四二)」
とあるのを採ったもので、『貫之集』第九雑にも出ている。
「はつせ」は初瀬、泊瀬、長谷とも書く。平安時代はこの初瀬寺に参詣する人が多か
った。観世音菩薩像を安置して、人々より非常に尊信されていた。
詞書を簡単に述べると、貫之は初瀬寺に参詣するたびに或人の家に長らくの間泊まら
ないで幾年か経て行った所が、その家の主人が「このようにちゃんと御宿はありますの
に 近頃は大分御無沙汰でしたね」と皮肉ぽく言ってよこしたので、その家の前に立っ
ていた梅の花の枝を折って、返事の代わりに詠んだ歌である。
近来は初瀬というと桜の花を指す場合が多い。特に平安朝中期以後になって「花」と
云えば桜の花を指すようになったが、ここでは詞書の中で判然とするように「梅の花」
を言ったのである。貫之は歌を作るのに機智を遺憾なく発揮し、当意即妙の応対歌であ
る。
又、歌の始めの「人はいさ」の「人」は詞書の中にある「あるじ」を指す、宿の主人
。「は」は第三句の「ふるさと」の「は」に対している。「いさ」は「さ」の字は濁ら
ず「いさ」と清んでよむ。「いざ」と濁る時は、人を誘う、又は事を始める時発する声
で、感動詞となる。『万葉集』に「不知」を「いさ」とよませている所もある。
貫之の父祖については色々と説があるが、通例としては、中納言長谷雄の孫で、父の
望行も歌で名高かった人であった。先に述べた通り、延喜年中御書所預となり、越前権
少掾内膳典膳、少内記等の官を経て、大内記に転ぜられ、五位下を授けられ、加賀、美
濃介となり、延長年中には大監物、右京亮に任ぜられ、土佐守となった。後、天慶年中
玄蕃頭となり、従五位上にすすみ、木工権頭となり、天慶八年(九四五)朱雀天皇の時
、八十五歳で歿したという。
前記の、貫之が無沙汰をしていた、宿の主人に一寸皮肉られた時の、応答歌がこの歌
であるが、此の時の宿の主人は早速返歌して、
花だにも同じこころにさくものを
植けん人のこころ知らなん
とある。
この歌のこころは、梅の花さへむかしと同じ心に、相かはらず咲くものなれば、此の
梅を植えた我が心を、花のかはらず咲く事にて知りたまへよ、というような当意即妙の
、返歌を詠んでいる。この歌は『貫之集』に載っている。
貫之の話は沢山あると記したが、次号には『土佐日記』について述べて見たいと思う
。
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