|
にぎわい草
坂上是則
朝ぼらけ有明の月と見るまでに
よしののさとにふれるしらゆき
坂上是則は、坂上田村麿四代の孫・好蔭の子であり、『後撰集』の撰者・坂上望城の
父である。
初め御書所の衆であったが、其の労により、延喜八年正月大和権少掾に任ぜられ、同
年八月大掾に転じ、同十二年三月小監物に任ぜられ、同十五年に中監物に転じ、同十七
年正月少内記、同廿一年正月大内記となり、その後累進して、延喜二年正月従五位下加
賀介となった。歌と蹴鞠にすぐれていたという。三十六歌仙の一人であり、歌風はこの
歌が示すように、旅先での実感実景を、客観描写の美の中に、詠歎感傷を示している。
「朝ぼらけ」の歌は、『古今集』冬の部に、「やまとの国にまかれりける時に雪の降
けるをみて詠める」とある。朝ほらけ―朝朗明の儀で、夜あけ方・夜のほのぼのと明け
る頃に見れば、有明の月影かと見るほどまでに、「有明の月」とは、夜明頃まで残って
いる月、月が空にあるままで夜の明ける頃の月、残月とも残んの月とも云う、あたりを
白一色にしているのではないかと見違える程に、吉野の里一面に白雪が降り積っている
事である。「朝ぼらけ」という詞は、『万葉集』には「朝開き」とあって、朝早く船を
漕ぎ出す時分の事として、舟を出す「開レ船」という事を意味し、唐風の事で、中世以
後は「あさぼらき」を「あさぼらけ」とよみかえて、舟のことにかかわらず、夜の明け
る時分となっている。
是則は、蹴鞠が達者であったという事を前記したが、延喜五年三月廿日、仁寿殿に於
いて殿上人並に藤原薫之、帯刀の長者在原相如、榎井清郷、及び坂上是則を召して、蹴
鞠をさせ給いし時、是則はこの人々の中で二百六度まで連足に蹴って、ひとつも堕され
なかったので、帝が大変賞詞され、内蔵の絹をたまわった、という事が古書に見える。
この事は是則が年若くして、御書所の下級官吏であったからである。
是則の子望城は、それほど歌の上手と云われた人ではなかったが、『後撰集』の撰者
にくわえられたのは、父・是則の與が高かった故であろう。
この「朝ぼらけ」の歌は、所謂「本歌どり」で、『続古今集』冬の部に、前大納言為
家の詠歌として
さらでだにそれかとまがふ山の端の
有明の月に降れる白雪
がある。
家集には、『坂上是則集』『歌仙家集本』には五十一首、『群書類従本』には四十四
首をねめている。
勅撰集に入る歌は、古今集七首、後撰六首、拾遺集に三首、新古今集七首、続後撰集
・新勅撰集各一首、続古今集五、続千載集二首、続後拾遺集一、新千載集・新拾遺集各
二、新後拾遺集・新続古今集各一首、合計三十九首が載っている。
是則の代表歌として佳作と思えるものは、次の二首である。
霧深き秋の野中の忘れ水
たえまがちなる頃にもあるかな
桜花今日よく見てむくれ竹の
ひとよのほどに散りもこそすれ
|