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にぎわい草
壬 生 忠 峯
有明のつれなく見えし別れより
暁ばかりうきものはなし
有明の月は、夜の明けるのを平然としているように、自分も宵のうちより彼人のもと
へ行ったのに、彼人は何とも思わぬ知らぬ顔して、自分には逢ってくれなかった、以来
その事が連想されて、本意なく別れた暁の頃になると、暁ほどいやなものはないよう、
思うようになった、という程の意である。在明は十五夜以後の月を言い、暁は夜明け前
の頃である。
訪ねて行っても、女が素気ない態度で逢わぬ中に、夜も明けかかって来たので、やむ
なく出て行く折柄、空には有明の月が平然とかかっていた。こうした時の記憶から、い
つも暁が辛く思われる、といったもので、眼前の月を以て女の冷淡さを譬諭とした所や
「別れよ」りと後顧的な長の時間を含めた所、人事と自然を一致させた手法は、当時
の風潮を示すと共に、一段と余情を深め、あわれな雰囲気を醸し出していう、作者の意
を汲む事も大切である。
壬生姓は、天足彦國押人命の後であるとも、崇神天皇の後であるとも言う。
忠峯が、和泉大将藤原定國の随身であった或る夜、定國が酒に酔って、左大臣師尹公
の御館へ深更に及んでから参られた所、師尹公は驚き怪しみ、何れへ参られたるついで
に立寄られたのかと、少し無興気になられた時、忠峯は、定國卿の供であったが、松明
を持ちながら階下にひさまずいて
かささぎのわたせる橋の霜の上を
夜半に踏分ことさらにこそ
と詠んで答えた。
この歌の意は彼家持の歌の中の、「 の渡せる橋に置く霜の」というのを本歌として
、私の事ではなく主人がこのように霜の降った上を、夜中にふみわけて参り候うは、外
へ参られしついででは候はず、此館へわざわざ参られ候なり、というこころである。師
尹公は早速その意を汲み、忠峯が定國の随身として、このように主人の事をよき様にと
りなしたる事を感じ、夜の明けるまで酒宴し給い、其上、定國にも忠峯にも引出物を賜
ったという事が、『大和物語』に記されている。
此の和泉大将は近衛大将であって、召し連れられた忠峯は、近衛の随身である。弓箭
を帯てて御供をするものである。歌では近き衛りと詠むのである。『古今集』の長歌に
、「かくはあれどもてるひかり 近きまもりの身なりしを たれかは秋の来る方に あ
ざむき出て」と詠んでいる。
衛門は禁中の禁門を守り、近衛は禁中の閤門を守り、天子を近く守護し奉る役である
。忠峯は左近衛の番長であったが、後に衛門の府生となされた事を憤って、「誰かは秋
の来る方に あざむき出てみかきより 外衛もる身の御垣守」を詠んだのは、此の衛門
の府生の陣が、宣秋門であったからである。
忠峯は延喜年中禁中の歌合に「ありあけのつれなく見えし」という歌を詠まれた時に
、帝が大変其歌をおよろこびになって、御随身に出世され、遂に昇殿を許され、御書所
に伺候させられ、貫之、躬恒等と共に『古今集』の選者の一に加えられたのである。
忠岑が嘗て和歌の十體を定めた時に、貫之を先師土州の刺史と書かかれたので、歌の
師は貫之であったのであろうか。土州刺史とは、貫之が土佐守であったからである。後
代に至って後鳥羽院が『古今集』の中の秀歌は何であろうかと御尋ねになった時、定家
・家隆両人ともに、此の「有明のつれなく見えしと」詠める歌を第一の歌であると、奏
聞したと言う。
後鳥羽院が『古今集』中の秀歌を御下問になった時、藤原定家や同家隆等がこの忠岑
の「有明の」歌を以って示されたということは、後世、加茂真淵が『宗比廉奈備中』と
いう本の中で、「後鳥羽院の御時 人々此うたを古今第一と申されしとあるものみえた
れど 千首に余れるが中にて 一首のみとり出さん事は 其の時のならし(風俗・習慣
等々)をのみ守りてかたよれるわざぞ かの貫之のぬしは 玄の玄とて三百六十首をぬ
き出せしすら 一人の好みにありてこそ聞ゆれ云々」と、ひそかにこの有明の歌、特に
忠岑の歌風は温和で概念的な憾みがある。理に走り、説明に随し、概念にとらわれては
ならぬのが、秀歌の撰び方であろうと述べている。
扨て、忠岑には家集『忠峯集』があり、歌仙集本に四十八首、群書類従本には百二十
二首、図書寮本には百八十四首を収めてある。勅撰集に入る歌は、古今集三十四首を始
めとして、各歌集に入撰している歌は計八十三首ある。一生を通じ沢山の和歌を詠じて
いる。
忠峯は長寿を保ちて、康保二年九十八歳で没したという。
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