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にぎわい草
凡 河 内 躬 恒
心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花
初霜の置いた朝、白菊と霜との区別がつかなくなって、当て推量で、もし折るなら折
れもしようが、それときめて菊を折りとりかねると、晩秋朝の清らかさを、白菊と朝霜
とによって誇張して詠んだ歌で、平安朝の恥美的な感傷の心の所産であるが、この歌は
文(飾る事)が質(実質)に勝って、実感味の少ない歌と云えよう。貫之と並び評され
ている、躬恒の代表的歌とは云えない。躬恒の佳作と思われるものは
わが宿の花見がてらに来る人は 散りなむ後ぞ恋しかるべき (古今集)
住の江の松を秋風吹くからに 声うち添ふる沖つしら浪 (古今集)
千鳥鳴く浜の真砂をふみわけて 行く旅人はあはれ誰ぞも (家集)
照る月を弓張としもいふことは 山辺をさしていればなりけり (大鏡)
である。
躬恒はもとより小身なる人で、家も貧しかったけれど、歌を詠む事によって世に認め
られるようになった。説によれば、天津彦根命の後、凡河内の國造等の子孫と云われる
。
寛平年中に甲斐少目となり、延喜帝に召されて御書所に仕候し、又、丹波権目、淡路
権掾を歴て、和泉大掾にうつり、六位を授けられた。
『古今集』勅撰の時も、紀貫之、壬生忠岑などと同列に撰者に定められたのである。
エピソードに、ある時帝が躬恒を階下にめされ、月を弓張というのは何故であるかと
、問い給わった時、躬恒は早速、恐れながらと申しあげ
照る月をゆみ張としもいふことは
山の端さして入ればなりけり
と歌に詠じて答え奉った。帝は大層賞賛なされ、御衣をたまわったという事が、『大和
物語』に出ている。又、躬恒の家に桜の木があって、春毎に花ざかりには、見に来る人
が大勢であった。其花の散った後には、訪ねて来る人もないので、
我がやどの花見がてらに来る人は 散りなん後ぞこひしかるべき
と詠じた。
この詠歌は人の薄情なる事を、いきどおって詠んだ歌であろう。又、延長四年、大堰
河行幸の時、題が九つ出され給い、読人は六人であり、外の人々は題ごとに一首を詠ま
れたが、散位凡河内躬恒は、「鶴江に立り」という題の外は、一題に二首詠みて献ぜら
れた事は、其の日の眉目であったと評判であった。
躬恒が三条の大相國検非違使の別当であった時、二条の帥と三条の相國の二人が、躬
恒と貫之の歌の勝劣を論じ爭った。三条の相國は躬恒、二条の帥は貫之をと、夫々詞を
つくして爭ったが、その判はつく事がなかったので、二条の帥が白河院へ奏聞して、御
批判をこい奉ったが、院の仰せには、「朕いかでか此勝劣を定める事が出来ようぞ、此
事は俊頼などに問うべし」と仰せられたので、俊頼朝臣に逢いて、三条相國との爭いに
就いて、又、院の仰せられた趣を、詳しく申し聞かせたのであるが、俊頼は躬恒をあな
どりたもうな、とばかり申され、二条の帥は貫之こそとひそかに想っているので、更に
俊頼に尋ねられたが、やはりその答えは、躬恒をあなどるなかれという返事で、結局そ
の優劣の勝負はなかったが、二条の帥は自ら思うに、吾の負けかと思われた、という事
であった。当時の歌壇に於て躬恒が高く評価されていた事の証しであろう。延喜年間の
貫之、躬恒と並び称された有名歌人で、三十六歌仙の一人である。
家集に『躬恒集』があり、歌仙歌集本は三百二十九首、『群書歌従本』は四百三十二
首を収めている。勅撰集に入る歌は、古今五十八、後撰二十二、拾遺三十四、新古今十
、続勅撰六、続後撰七、続古今十一、玉葉十六、続千載六、続後拾遺五、風雅一、新千
載六、新拾遺・新続古今各二首、計百九十三首であるが、拾遺集の一首と古今集の一首
は重載である。
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