|
にぎわい草
源 宗于朝臣
山里は冬ぞ淋しさまさりける
人めも草もかれぬと思へば
宗于(むねゆき)朝臣の父は光孝(こうこう)天皇の皇子・一品式部卿是忠(いっぽんしきぶきょうこれただ)親王である。宇多天皇の寛平(かんぺい)六年(八九四)、源朝臣の姓を賜り臣籍に下った。同年正月従四位に叙せられ、朱雀天皇の承平二年(九三四)十月右京大夫正四位となり、同天皇の天慶二年(九三九)六月卒した。
天皇が数代にわたるのでその歴代を記すと、陽成天皇は元慶八年(八八四)二月五日、藤原基経に依って廃せられ、光孝天皇が立てられる。光孝天皇は仁和三年(八八七)八月二十六日没し同年十一月に宇多天皇が即位する。寛平九年(八九七)宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位、年号は昌泰となる。九〇一年に改定して延喜となる。この延喜元年右大臣菅原道真を大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷する。延長二年(九二四)十一月よりすすめられていた延喜式が同五年(九二七)十二月に完成する。
醍醐天皇が延長八年(九三〇)九月四十六歳で崩御し、同年九月二十二日朱雀天皇が即位する。改元して承平となる。この平安前期は政変が多くあり、藤原氏がその権力をふるい、平将門の変などもある。
本文から時代の解説になり、宇于朝臣の歌にもどる。この歌は『古今集』冬部(ふゆのぶ)に「冬」と題して詠まれた歌で、そのこころは、山中(やまのなか)の里はいつも淋しい所であるが、冬になるとその物淋しさが、常よりも一段とまさるものだ、ということである。どうしてかというと、春秋などは、都より花やもみぢを見に来る人もあるが、その訪ねてくる人も少なくなり、よのつねの淋しい所と思うのであるが、更に冬になると特に、あのまれまれに見えた人目も絶え、草も木も枯れはてたりとも思うことによって、いよいよさびしさがまされると、上の句にかえして詠んだのである。『万葉集』に、「離(り)」の字を「枯(かる)る」とよみ、「人目のかるる」とは、「人離れになった」という意(こころ)であろう。
「山里は」と詠みだしたのは、都に対した語で、山里は、の「は」には区別した気持が良く出ている。この歌の山里は、山中の里ということであろう。「かれぬと思えば」の「かれ」は、万葉の「離(かれ)」と「枯れ」との掛詞である。「人目と草木」は一段かけはなれているのであるが掛詞で、同列において、自然と人事を一致させている。当時の歌風として理智的、理に適ったという所にあらわれている。『大和物語』に、「宇多院の花おもしろかりける頃、南院(なんいん)の公達(きんだち)これかれあつまりて歌よみなどしけるに、右京(うきょう)のかみ宗于(むねゆき)のよまれる歌」
来て見れば心もゆかずふる郷は
むかしながらの花は散れども
とあり、当時の歌風が理解できるであろう。
宗于朝臣は三十六歌仙の一人。家集(いえのしゅう)に『宗于朝臣集』があり、歌仙家集本は二十八首、群書類従本は三十九首を収めている。勅撰集に入る歌は、古今六、後撰三、新勅撰一、続千載・続後拾遺各二、新千載一首、合計十五首が載っている
|