にぎわい草
曽我兄弟の仇討ち
紅心 小堀 宗慶
今から八百十七年前、源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年の建久四年(一一九三)五月
二十八日、富士の裾野における頼朝の巻狩にて、曽我十郎祐成・五郎時致の兄弟が、
実父である河津祐泰を殺害した工藤祐経を討った。この”曽我兄弟の仇討”は、江戸時
代になる、寛永十一年(一六三四)十一月七日の、伊賀上野の「鍵屋の辻」の?伊賀
越の仇討?と、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の夜の?赤穂浪士の討入?と共に、
日本三大仇討と呼ばれるが、最近では”赤穂浪士の討入”以外を知る若い人は、少なく
なっている。
「日本三大仇討」で、最も有名なのが、「忠臣蔵」の名で演劇や映画など、広く親
しまれている?赤穂浪士の討入?で、知らない人はほとんどいないと思われるが、曽我
兄弟の話を知る人の割合いは、どんどん減少していっている。だいぶ長いこと、映画
やテレビなどでも採り上げられないので、一般的娯楽においても、忘れられてしまう
のではないかと、危惧される。
兄弟の祖父・伊東祐親は、本領・伊豆国伊東荘をめぐる紛争で、工藤祐経に祐親は
傷つけられ、嫡男・祐泰は殺された。その後に、兄弟の母・満江御前は曽我祐信と再
婚、兄は元服して曽我十郎祐成と名乗り、曽我の家を継ぐ。弟は、箱根権現社の稚児
から、頼朝の妻・政子の実父で、鎌倉幕府初代の執権となる、北条時政のもとで元服
して、曽我五郎時致と名乗る。時政の前妻が祐親の娘であり、十郎・五郎の兄弟は甥
にあたるからで、以後も兄弟の最大の後援者となる。その庇護のもと兄弟は、実父の
仇討ちを忘れることなく、十八年の忍苦の末に、父の仇敵を討ちとることができたが、
二人共相い次いで捕えられ、殺されてしまう。
この事件は、『曽我物語』として、作者は不詳だが、この原作は鎌倉末から室町初
頭には成ったと考えられ、広く愛読されて、後世の文芸などに大きな影響を与え、い
わゆる「曽我物」といい、能や浄瑠璃、小説などの題材に取り上げられた。特に江戸
時代半ば頃からは、歌舞伎の演目では民衆の人気を得て「曽我狂言」として、数百種
もの多くの狂言が作られ、度々上演されている。江戸においては、正月興行の?初春
狂言?は「曽我狂言」と定まっていた、と伝わる。現在では、それほどではないにし
ろ、歌舞伎の狂言として人気は高い。しかし、まだまだ歌舞伎は一般的ではないこと
もあり、「曽我物」は広く知れ渡っていないようである。
神奈川県の大磯に”虎子饅頭”という、見返り姿の虎の焼印が押してある、この宿の
遊女・虎御前に因んだ饅頭が名物となっている。虎御前は曽我兄弟の兄・十郎祐成と
深い契りを結び、十郎の亡くなった五月二十八日には雨が降ると伝わり、虎御前の涙
といわれる。?虎子饅頭?が広く知られるようになり、その由来から曽我兄弟の仇討の
話も、全国的に流布してほしいと思う。

HOME