にぎわい草6月

にぎわい草

順徳院

紅心 小堀 宗慶 



百敷やふるき軒端のしのぶにも

なほあまりある昔なりけり

 『続後撰集』雑下に「題しらず 順徳院御製」とあり、「順徳院御集(紫禁和歌草)」によると、建保四年(一二一六)二十歳の天皇在位中の詠歌で、父・後鳥羽上皇は三十七歳にして、『百人一首』に載る「人もをし人もうらめし云々」の歌を詠じてから四年後となる。政治の実権は鎌倉幕府の執権・北条氏に移り、朝廷の力は衰えてしまった。そのような状況を嘆いての和歌であり、御自身の力のなさを悔む、心情を吐露しているようである。

 皇居の古びた軒端に生えている忍草を見るにつけても、朝廷の衰退の有様が感ぜられて、いかに偲んでも偲びきれないのは、天皇の統治により栄えた御代であることよ、と詠じる、「ももしきや」は元来「大宮」に係る枕詞で、それが「大宮」「皇居」そのものの意となり、「しのぶ」は植物の「忍草」と「偲ぶ」とをかけている。

順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子として、建久八年(一一九七)九月十日に生誕され諱を守成。翌年一月十一日、十九歳の父・後鳥羽天皇は、四歳の皇太子・為仁親王に譲位し院政を始めるが、皇子・守成は、三歳の十二月に親王となり、四歳の四月には兄である土御門天皇の皇太弟になられる。十二歳の十二月元服し、故・後京極良経女立子を御息所とし、十四歳の十一月二十五日践祚、十二月二十八日即位し、翌二十九日に立子は女御とされ、翌年正月には中宮に立てられ、建保六年(一二一八)十月十日には懐成親王が生まれ、翌十一月二十六日皇太子となる。翌建保七年、天皇二十三歳の一月二十七日源実朝が殺されると、父上皇は倒幕計画を進め、天皇も積極的に参画される。承久三年(一二二一)四月二十日、二十五歳にして皇太子・懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、上皇としての立場にして討幕・承久の乱に加わり、敗れて、七月二十一日都をあとにし、流配地・佐渡島に渡り、在島二十一年で仁治三年(一二四二)九月十二日、四十六歳で崩御される。

 順徳天皇は、在位十年余りになるが、父・後鳥羽上皇の院政のために、政務に関与することができず、その反動ともみられるように、有職故実や歌学の研究・修得に力を注ぐ。

 『禁秘抄』は上中下三巻からなり、宮中の宝物・殿舎、諸公事・神事・仏事などから、天皇を初めとする廷臣の故実や芸能などを記し、天皇在位中に完成する。
 『八雲御抄』は鎌倉時代の最大かつ最も優れた歌学書で全六巻の構成。巻一・正義部、巻二・作法部、巻三・枝葉部、巻四・言語部、巻五・名所部、巻六・用意部からなっており、古代歌学の集大成書と評価され、現在不明であるが原稿本は、天皇在位中に成ったと考えられ、佐渡に流配後に増補が行われ、その草稿本を基にし、更に増補されたものが、定家に与えられている。

 和歌においては、父帝の影響もあり、多くの歌合に参加し、平明典雅な歌風を確立する。歌集には『内裏名所百首』『順徳院御百首』もあり、勅撰集には百五十九首が入集する。

 承久の乱は、定家六十歳の五月十五日に起き、六月十五日には幕府軍が京都を制圧する。七月九日仲恭天皇は在位僅か七十八日で廃され、後鳥羽院の兄・守貞親王(後高倉院)の第三皇子が皇位につく、後堀河天皇であり、まだ十歳のため、後高倉院が院政を行なう。

 それから十一年、定家七十一歳の貞永元年(一二三二)六月十三日に、後堀河天皇より『新勅撰集』撰集の命を受け、十月二日に仮名序と二十巻部目録を奏覧に供する。二日後に天皇は譲位され、二年後の天福二年(一二三四)六月三日、院の仰せにより、自筆浄書の草本を奉つるが、八月六日に二十三歳で院が崩御すると、定家は手許の草稿を焼却する。ところが、後京極良経・嫡男の前関白・九条道家は、生前に後堀河院が所持の、定家筆の草本を手に入れ、長男の摂政・教実と共に、十一月九日に定家を召して、承久の乱に関係した、後鳥羽院・順徳院などの歌を全て切り出す。翌年三月十二日に清書本と草本は道家に納められる。したがってこの歌集は、鎌倉幕府寄りの、片寄った勅撰集といえる。

 文暦二年(一二三五)五月二十七日、七十四歳の定家は、嫡男・為家の岳父であるところの、宇都宮入道蓮生から依頼されていた、色紙形に和歌を書して賜る。この色紙は現存しないが、冷泉家に伝来の『百人秀歌』であり、百一人の和歌集である。『小倉百人一首』のもとと考えられているが、源俊頼の歌が異なり、一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方と後鳥羽院・順徳院の相違がある。

 『新勅撰集』は、源頼朝と遠縁になり、鎌倉四代将軍の父であり兄である、定家の家になる、九条道家・教実親子の意思が強く影響する。また、宇都宮入道蓮生も、鎌倉幕府初代執権・北条時政の女婿であるから、当然のこととして、反鎌倉の人達は除かれる。

 しかし、後鳥羽院・順徳院の歌人としての技量や心情にたいする、定家のおもいは満たされず、自身の小倉山荘の色紙に、両院の歌を入れるのは当然であり、『百人一首』の成立年代などは諸説あるが、「小倉色紙」には定家の、両院へのおもいが込められている。