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にぎわい草
後京極摂政前太政大臣
きりぎりすなくや霜夜のさむしろに
ころもかたしきひとりかもねむ
この歌は、通称・後京極良経こと九条良経の詠歌で、『新古今集』秋下に「百首の
歌奉りし時 摂政太政大臣」として載る。ここに記される「百首の歌」は、『正治初
度百首』、『正治二年院御百首』、『正治百首』などと称され、正治二年(一二〇〇)
秋、後鳥羽上皇が詠進せしめた百首歌で、歌人は、後鳥羽院をはじめ、式子内親王、
慈圓、俊成、定家、家隆、寂蓮、二条院讃岐など二十三名であり、『新古今集』の選
歌資料として重視され、七十九首入集されている。後京極良経はこのとき三十二歳で
「左大臣正二位臣藤原朝臣良経上」として詠進しており、「きりぎりす」のこの歌は、
秋二十首のうちの一首である。?きりぎりす?というのは今の"こおろぎ"のことで、今
いうところの"きりぎりす"を昔は"こおろぎ"と、平安時代の漢和辞書にはあり、今と
昔では全く逆である。
こおろぎが心細げにないている、この霜のおく晩秋のつめたく寒い夜、筵の上に、
衣をとかずに片袖を敷いただけで、わびしく、ただ独り寝ることであるかなあ、と詠
じており、情景と心情のさむざむとした感がよく表われているが、『万葉集』などの
数首の歌からの発想による、いわゆる本歌取りとして、あまり高く評価されないこと
もある。しかしながら、晩秋の寒夜の澄んだ空気が「きりぎりすなくや霜夜」の表現
や、また「さむしろ」という、「寒し」と「筵」をかけた掛詞を用いるなどして、語
調もひびきよく、素直に詠み表わされて、新らしい感覚が窺われ、その上句に対して
下句では「衣かたしき独りかも寝む」と、孤独なわびしさが、古風なおもおもしさで
歌われ、上句の優しさと下句の勁さの、一見不調和に思われる作歌の風が「新古今時
代」の風潮に適合したようで、『新古今集』の撰者名注記によると、完成前に寂した
寂連を除く五人の撰者のうち、藤原雅経以外の、源通具、藤原有家、定家、家隆の四
人が推していることでもわかり、その時代を考慮すれば、秀歌とされてしかるべきで
ある。
後京極良経は、『百人一首』第七十六番の法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通
の孫になり、父は忠通の三男・兼実で、後に五摂家と称される近衛・鷹司・九条・二
条・一条の、九条家の始祖になり、九条を名乗ることになる。
兼実には、一人の姉と二人の兄があり、二十七歳上の姉・聖子は、父・忠通の正妻
である権大納言・藤原宗通女を母とし、崇徳天皇の皇后となり皇嘉門院と号し、『百
人一首』第八十八番の皇嘉門院別当の仕えた女院であり、弟・兼実の嫡子・良通を猶
子とし、所領の多くを譲与した。これが九条家領の中心をなす。
兼実の、六歳上の長兄・基実と、五歳上の次兄・基房は、共に中納言・源国信女を
母とし、基実は梅津摂政と称され、近衛家の始祖となり、基房もまた松殿摂政と称さ
れ、政治の中心で激動の時代を過ごした。因みに、基実の曽孫・兼経の弟・兼平が鷹
司家を起こす。
兼実は、二人の兄には少々及ばずとはいえ、皇嘉門院の後楯にて、政治・経済生活
の基盤を得ることができた。そして、曽孫で良経の孫の良実が二条家、実経が一条家
を起こす。
九条兼実は、姉や二人の兄とは異なり、藤原仲光女を母として生誕、同母弟に天台
座首になる慈圓(慈鎮)がおり、息子・良経の死去一年後、建永二年(一二〇七)四
月五日に五十九歳で没する。和歌に秀で、『千載集』『新古今集』などに入集する歌
人であるとともに、藤原俊成・定家などの、当時を代表する歌人の活動に、大きな役
割を果たしている。
九条良経は、父が二十一歳の仁安四年(一一六九)三月の誕生と推測されている。
そして文治四年(一一八八)兄・良通の死去に伴ない、二十歳で嫡男となり、翌年に
は、参議を経ずに権中納言・権大納言に進み、左近衛大将をも兼ねる。二十七歳の建
久六年(一一九五)に内大臣に任じられるが、翌年、いわゆる?建久七年の政変?とい
われる、政敵の源通親の策謀により、父・兼実が関白の地位を追われるという、父の
失脚に遭遇し、良経も追放されて籠居する。三十一歳で左大臣として復帰、源通親の
死後、三十四歳で氏長者となり摂政に任じられ、二年後には従一位・太政大臣に昇る
が、翌年に太政大臣と氏長者を辞し、元久三年(一二〇六)三月七日、摂政在任のま
ま、就寝中に急死、三十八歳。
良経は、後鳥羽院政の中枢に位置していたとはいえ、政治の面では特別に見るべき
業績はないが、文芸面においては祖父・父の血を継いで、能書家としては、後京極流
の始祖として尊重され、「佐竹本三十六歌仙」の和歌の筆者として知られている。
漢詩文を藤原親経に、歌学は俊成、和歌は定家に学ぶが、いずれも師を凌駕する才
ありと称せられ、なかでも和歌を最も良くし、やはり和歌・文章に優れる、父・兼実
の政敵である、源通親とも交友関係は悪くなく、後鳥羽院歌壇の重要な立場にあった。
当代を代表する歌人でもある後鳥羽上皇も才能を認め、建仁元年(一二〇一)『新古
今集』撰集のための和歌所を置かれた際、その筆頭寄人とされ、元久二年三月二十六
日、『新古今和歌集仮名序』を記す。俊成・西行・慈圓・定家・家隆と『新六歌仙』
の一人でもあり、家集に『秋篠月清集』があり、勅撰集には『千載集』以下、三百二
十首が入集している。和歌集のほかにも、漢詩集『後京極摂政詩集』、除目成文の集
成『除目大成抄』、日記などからなる『殿記』、『作庭記』などがあり、その多才ぶ
りが窺える。
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