茶の湯日記4月

不傳庵 茶の湯日記 

「新」とは

遠州茶道宗家十三世家元 小堀 宗実 

4月の声を聞くと、毎年のように「新」何々といった冠のつく言葉や表現がよく見られるものだ。そこに清新なイメージをもつ人もいれば、少しものなりなさを感じる人もいる。つまり、人間の感じ方は、基準をどこに置くかいうことでずいぶんと変わるものである。

 たとえば茶道具でいうと、江戸時代の初期がその真ん中であるといえる。時代区分としてはかなり曖昧であるが、桃山時代と聞くと、江戸より少々古く感じるのである。そして、それよりも前、室町とか南北朝時代、さらには平安というと、そうとう古いと感じるのである。ということは、400年くらい前が基準となっていて、それより前になれば、10年、20年、50年というふうに古いと思う感覚が増していき、300年前や200年前と時代が下がっていくと、徐々にではあるが、新しいという感覚に近づいていくことになる。100年前のものは、私たちにとってはそれほど古いという感じはしないものである。

 一方、現代作家のものといえば、有名作家の新作、直近作というものは、当然ながら最も新しいと素直に受けとめるのが、私たちである。しかし、「10年前の作品ですよ」などと説明を受けると、「こういうものをつくっていたんですね」と、やや古いものを見ている気分にもなるし、また、30年前や50年前にも創作していた作家の作品であれば、「ずいぶんとむかしのものであるなあ」といった感覚になる。こういう感性は、茶道具鑑賞には常についてまわるものであり、ものを通して自分自身の成長を感じることにもつながっていくことである。

 みなさまも同様なことは多くご経験があると思うが、以前はよいと思って夢中になったものが、いまはさして興味がもてないといったことは、しばしばあるものである。遠州公にもそういったことはたくさんあったようで、いちばん有名なのは飛鳥川茶入の話である。

   昨日といい今日と暮らして飛鳥川
      流れて早き月日なりけり

という春道烈樹の詠歌。わかりやすく、あえて漢字表記を多くしたが、遠州公は、若年のときに一度手にし、それほど興味のもてなかった茶入を、後年ふたたび拝見したときには、すばらしい茶入であると感激し、この歌銘をつけたのである。

 このように、私たちの周辺では新旧の感覚が時々にいろいろ変化する。そういうなかで伝統文化に身を置く私たちは、常に基礎をしっかりと学びながらも、「新」という志を大切にしていかなければならないと思う。創意工夫とはそういうことであり、それは伝統文化の命題でもある。