茶の湯日記10月

不傳庵 茶の湯日記 

父と林屋先生と私

遠州茶道宗家十三世家元 小堀 宗実 


 この夏の天候は実に不安定であった。特徴的なのは局地的に、短時間に集中して豪雨に襲われたことであり、家屋が倒壊、多くの方々の命と財産が失われた。慎んで哀悼の念を表し、早急の復興を願うものである。

 さて、二カ月にわたり表題の御両人にまつわる話を書いてきたが、それはみな、私は裏方にいたときの話であったので、今回は一緒の場面にいたときのエピソードを一つ紹介しよう。

 私が先生の眼力が鋭いと思った最後は、七月号に書いたとおり、亡くなる二週間前のお見舞いのとき。茶籠から茶碗を取り上げた瞬間に、遠目でいい当てられたことであった。また最初のころはというと、やはり初風炉の灰のことである。そしてそれ以降でもずいぶんと感心させられたことは多かった。

 あるとき、先生と私の二人で高松で講演をしたことがあった。もともとは、父と先生が対談形式で招かれた講演会で、テーマはずばり父の「茶の湯の花」についてであった。ご承知のとおり父の花に対しては世の中の評価も高いし本人の思い入れも深い。長年にわたり写真に残してきたものを、スライドを見ながら二人で話をするという企画であった。ところが、父が体調を崩し、うかがえないという事態となった。どうしたものかと案じたところ、父が私に「あなた行ってください」といい、それを受けて先生も「それがよい、いちばん近くで宗慶さんの花を見ていた宗実さんがよい。せっかくだから、宗実さんの花のスライドもいれましょう」

そういうわけで、急きょ私が先生と同行することになった。私としてみれば、本来、相手が父ということで成立していたものが、いくら後継者とはいえ、私では荷が重いと思った。反面、父も先生も私の花に対しての姿勢をいくぶんか認めていたのだという気持ちもあって、それは心の支えにもなった。

 当日、会場での花のスライドは、茶の湯の花らしく口切りから始め、名残りという順序とした。一つひとつ、花の種類、花入について、またそれがどういう茶会で入れられた花か、どのような精神で入れたものかなどについて先生が私に質問し、私が答えるという形であった。もちろん父の花については、その心はいわゆる私の推測も含まれてはいた。先生は必ずしも誉めるだけでなく、ときには「これはまぁまぁだね」などといい、いつものようであった。

この対談で私が驚いたのは、先生が、父と私の花をスライドが変わるたびごとに「これは宗慶老、これは宗実老」と一枚も間違えることなく看破されたことであった。先述のとおり、季節の順で花を並べたので、父と私の区別はとくにしていなかった。比率は父が八割で私が二割。当然私の花の場合は「これは私のです」というつもりであったが、その前にすべていい当てられた。加えていえば、撮影のために入れた花と茶会の花もみな見分けられたのであった。

 帰京して父に報告すると、「それは判るでしょうね」と微笑んだのを記憶している。


去る8月10日、直入会の服部宗歊さんがご逝去されました。また弘前支部 木村宗占先生、遠州流茶道教授者最年長の八戸支部中村宗益先生(享年一〇五)の訃報に接し、慎みて哀悼の意を表します。