茶の湯日記7月

不傳庵 茶の湯日記 

林屋晴三先生をしのんで

遠州茶道宗家十三世家元 小堀 宗実 

  またたく間に半年が過ぎ、折り返しの頃をむかえている。今年は私の周辺では多くの、茶の湯にかかわる方々が亡くなられている。そのなかでも、林屋晴三先生のご逝去は、私にとっては大きな悲しみとなった。

 4月1日の午前中、翌日に挙行される春季許状式の準備のため、若宮町の宗家に在している際にその訃報が入った。そのとき「ああ、やはり」という気持ちと「なぜ」という思いが交錯し、そしてなんともいえない大きな大きな喪失感が私を襲ったのであった。

 実はお亡くなりになる二週間ほど前に、私は先生にお目にかかっていた。昨年ごろから少しずつ体調を落とされていたと推察するが、それでも先生はかなりのハイペースでお仕事をされていた。時折、私がそのことを指摘すると、
「いやぁ、わかってはいるんだけどね。宗実さん、あなたもね」
 と笑っておられた。ちなみに、先生は私のことを「宗実さん」か「宗実老」と呼ばれていた。今年の正月の点初めには、いつものように出席され、江月和尚の「放下著」と、恒例の私の自作青竹をことさら気に入られたようだった。いく分、やせられていたが、席中ではいつもの振る舞いであった。その後、天神茶会、遠州忌と欠席されたので、先生の体調の悪さを心配していた。入院されたことも、その後知った。

 そんな折、3月中旬、都内某所で赤沼多佳女史とお会いしたところ、私の父の命日4月24日が気になっておられるという話をうかがった。今は退院され、自宅療養されていると。私はこのころ、ほとんど時間なく毎日を過ごしていたが、ここはなんとか先生にお目にかかりたい、そしてきっと大好きなお茶もしばらく召し上がっていないだろうと思い、早速お宅にうかがうことにした。16日の夕刻、長女の朗子も一緒に連れていった。

 先生は私の父とは茶の湯を通しての一番の友でもあったが、その縁から私とともに、娘たちもたいへん可愛がっていただいていた。「アッコちゃん、ゆう子ちゃん」と、娘たちに対しては厳しい眼光も柔和になられたものだった。

 話を元に戻そう。ご自宅にうかがうまでは、とにかく状態がわからないが、急いで先生の好きそうな取合せを茶籠に仕込んだ。

 横になられていた応接間で久しぶりに挨拶をかわす。「気持ちはあるけどちょっと体力がね」といわれたが、話をしていくうちに少しずつ声も出てきた。「一服召し上がりますか」と茶籠から茶碗を取り出すと、かなり薄暗く、また先生からは遠い距離にもかかわらず、「いい堅手ですなぁ」と一瞬にして看破されたのはさすがだった。用意した極小のきんとんを半分、そして一服されると「やっぱり宗実さんのお茶は美味しいね」と笑われた。その後は祥瑞でお白湯を差し上げた。

 帰り際に「26日の公開討論会は難しいけれど、本当は今回は面白いのに残念だなぁ。『茶の湯』展は楽しみだ」と意欲を見せられた。「またまいります」といったところ、「まぁ、少し厳しくなってきたね」となんとなくしんみりしてお家を辞した。それが最後のお別れとなった。

 まだまだ書き足りないが、ひとまず筆をここで置くとする。本当に余人に代えがたい人であった。

 合掌