茶の湯日記7月

不傳庵 茶の湯日記

竹の心

遠州茶道宗家十三世家元 小堀 宗実 

 七月の声を聞く頃になると日本列島は、ヒートアイランド現象が年々苛烈を極める有様である。

 天候だけでなく、人間の心もこの所かなり熱くなっていると思う。熱くなるといっても、スポーツ等に心を熱くするのならば良いが、日本国内で様々の問題が、次から
次へとあふれるばかりに出現し、それに対しての怒りの熱さが国民の心に充満しているので、けっして良い状態ではないと思う。こういった時こそ、平常心を失なわずいたいものである。

 四月二十四日の父・紅心宗慶宗匠の米寿祝の茶会で、使用した道具の中で、和歌が銘や、書として書かれていたものが、二点あった。それは、二首とも「竹」について詠ぜられた和歌である。そして両首が互いに、関係のある歌、言い換えれば、関連して同じ時に詠まれたと言える歌である。勿論、私の取り合わせとして、その事は意図したものであった。

 「竹」は古来から、人間のあり方や心の持ちようについて、例(たとえ)としてよく取り上げられている。「竹に上下の節有り」とは節度やけじめといったものを示し
ている言葉である。

 茶会で用いたものの一つは、遠州と松花堂の両筆による「竹の絵賛」で、当然の事ながら松花堂が竹を描いている。ただその竹が、曲竹、つまり直ぐでなく、しなった形の竹を書いているところが面白い。そして、遠州が、「直ならむと よくよく思もふ竹たにも 世につれられて かくのごとくに」と賛をしているのである。因みにこ
の歌は、大徳寺百五十三世の澤庵宗彭禅師の詠んだものである。

 もう一つは、遠州家二世の大膳宗慶作の茶杓の歌銘である。二世宗慶を代表する茶杓の共筒に「ゆがまする人にまかせてゆがむなり これぞすぐなる竹の心よ」と書きしるされている。因みに、この和歌は、大膳の父すなわち遠州公詠歌であり、前述のごとく遠州公が澤庵和尚の歌の心をうけて詠んだ歌なのである。掛物と茶杓は道具としては異なるものであるが、それぞれ遠州が澤庵、大膳宗慶が遠州というように、自分の師匠の歌を記しているというとことにより面白さを感じることができる。

 いずれにしても、私たちはこの歌のように、いつも竹の心を持ちたいものである。素直にして時には柔軟で、そして本質を失なわない姿こそ尊いものである。